井上寿一の近代史の扉
ユーミンと共に 1970年代が今に教えるもの
毎日新聞 2022/11/19 東京朝刊 有料記事
先月、歌手の松任谷由実さん(ユーミン)のデビュー50周年記念ベストアルバム「ユーミン万歳!」が、オリコン週間ランキングで初登場1位を記録した。ユーミンのメッセージ、「想像さえしなかった50年。振り返ればあっという間の半世紀。変わりゆく世界の中で、変わらない思い出を」は、彼女と同時代を伴走した誰もが共有できる感覚である。
高校生の時、ラジオからユーミンの「ひこうき雲」が流れてきた。そこに広がっていたのは、自分の知らない、しかしがんばれば手の届きそうなアッパーミドルの生活空間だった。
ひこうき雲 - 荒井由実(松任谷由実)
他方でユーミンのデビューの年(1972年)は、激動の70年代を予感させた。連合赤軍あさま山荘事件が起き、視聴者はテレビ中継にくぎづけとなった。「今太閤」とはやし立てられた田中角栄の首相就任に伴い、日本列島改造論ブームが巻き起こった。日中国交正常化は国際権力政治の現実に直面した。沖縄返還は日本の戦後に終止符を打ったはずだった。
以下では70年代を振り返りながら、この時代が今日の日本に示唆するところは何かを考える。
あさま山荘事件後ほどなく、リンチ殺人事件が発覚する。これら二つの連合赤軍事件を分岐点として、国民の大規模な社会運動への参加はなくなった。社会運動としての学生反乱が一般市民の支持を得たのは、68年の長崎県佐世保市の米原子力空母エンタープライズ寄港阻止事件が最後だった。
「ついに来た原子力空母」No.732_1 #中日ニュース
一般市民から遊離した学生反乱の末路は、連合赤軍事件を経て、過激派の内ゲバへと至る。国民は社会運動よりも政党政治による漸進的な民主化を求めた。
列島改造ブームは地価の高騰を招く。翌73年には第1次石油危機に見舞われる。石油関連製品を中心に物価が高騰する。国民生活は「狂乱物価」の直撃を受ける。翌年、日本経済は戦後初めてのマイナス成長を記録する。高度経済成長は終わった。
日中国交正常化交渉は、台湾問題と中ソ対立の影響で難航する。中国の対日賠償請求権放棄の代償は大きかった。中国と台湾の二重承認の可能性が失われた。尖閣諸島の問題の政治決着は禍根を残した。日中共同声明の第7項の「覇権を確立しようとする」国の試みに「反対する」とは、中国側からすれば、日本もソ連包囲網に入ったことを意味した。国交正常化を急いだ日本外交の拙劣さが目立つ結果になった。
沖縄返還は「核抜き・本土並み」だったはずである。ところが69年の日米共同声明は「核抜き」を明記せず、核の再持ち込みの疑惑が残った。のちに2009年になって、有事の際の核再持ち込みを容認する密約の存在が明らかになった。「本土並み」からも遠かった。米軍基地の縮小・撤去は遅れた。日米地位協定の不平等性が本土以上に重くのしかかった。戦後は終わらなかった。
沖縄返還と密約
70年代の日本は、以上のような危機を、そのつど乗り越えた。
先進国首脳会議(サミット)への参加による先進国間の経済的国際協調と、脱石油化・省資源化による産業構造の改革は、日本経済を立ち直らせた。ユーミンが描くアッパーミドルのライフスタイルは夢ではなくなった。
国内政治は「保革伯仲」から「保革逆転」をうかがう勢いだった。与野党はどちらの政策の方がより早くより確実に「福祉国家」になれるかを競った。
脱冷戦の国際政治の多極化は、対米自立を促した。日本外交は、防衛力の整備を進めることで対米依存からの脱却を図りつつ、西ヨーロッパ諸国との協調にかじを切る。日本の外交地平は拡大する。朝鮮半島への緊張緩和の波及は、北朝鮮との関係改善志向を生む。他方で日本は、東南アジア諸国連合(ASEAN)との相互理解と信頼醸成を進める。
このように70年代は、もう一つの日本の可能性があったことを示すと同時に、今日の日本が直面する諸問題との共通性を意識させる。そうだとすれば、70年代から学べるのは、第一に少子高齢化社会の日本の持続的な発展をめぐり、与野党が政策を競うことである。
【漫画】日本で少子高齢化がこのまま進むとどうなってしまうのか【イヴイヴ漫画】
第二に日本外交は、一方では民主主義の価値を共有する先進国との多国間協調を基礎とする多角的な展開を図り、他方では日米同盟の責任分担による対等性を確保して、自立すべきである。
第三に階層移動が可能な社会の構築である。それには教育が重要であることは論をまたない。「親ガチャ」は社会階層を固定化する。そうではなく、誰にも等しく教育を受ける機会が与えられなければならない。自助努力が強調されがちな日本社会で、問われているのは教育の公共性である。
1970年代は歴史の教訓に満ちている。(学習院大教授、第3土曜日掲載)
私は1947年生まれですが、井上寿一先生のお陰で青春時代からこちらを、ざっと振り返ることが出来ました。「少子高齢化」は耳にタコが出来るほど聞こえていますが、インターネットスラングらしい「親ガチャ」なんて表現を今初めて知りました。なにせブログで相互訪問していると、ひと世代若い人たちの文面には、現代用語が出てくるたびにヒーヒー言いつつ、いつもググっております(笑)。
反対にひと世代若い人たちにこそ、上記に書かれている「70年代の日本がそのつど乗り越えてきた危機」を知っておいて欲しいですね。私も呆けつつある頭を目ざまさせていただき有難うございました。
ユーミンと共に 1970年代が今に教えるもの
毎日新聞 2022/11/19 東京朝刊 有料記事
先月、歌手の松任谷由実さん(ユーミン)のデビュー50周年記念ベストアルバム「ユーミン万歳!」が、オリコン週間ランキングで初登場1位を記録した。ユーミンのメッセージ、「想像さえしなかった50年。振り返ればあっという間の半世紀。変わりゆく世界の中で、変わらない思い出を」は、彼女と同時代を伴走した誰もが共有できる感覚である。
高校生の時、ラジオからユーミンの「ひこうき雲」が流れてきた。そこに広がっていたのは、自分の知らない、しかしがんばれば手の届きそうなアッパーミドルの生活空間だった。
ひこうき雲 - 荒井由実(松任谷由実)
他方でユーミンのデビューの年(1972年)は、激動の70年代を予感させた。連合赤軍あさま山荘事件が起き、視聴者はテレビ中継にくぎづけとなった。「今太閤」とはやし立てられた田中角栄の首相就任に伴い、日本列島改造論ブームが巻き起こった。日中国交正常化は国際権力政治の現実に直面した。沖縄返還は日本の戦後に終止符を打ったはずだった。
以下では70年代を振り返りながら、この時代が今日の日本に示唆するところは何かを考える。
あさま山荘事件後ほどなく、リンチ殺人事件が発覚する。これら二つの連合赤軍事件を分岐点として、国民の大規模な社会運動への参加はなくなった。社会運動としての学生反乱が一般市民の支持を得たのは、68年の長崎県佐世保市の米原子力空母エンタープライズ寄港阻止事件が最後だった。
「ついに来た原子力空母」No.732_1 #中日ニュース
一般市民から遊離した学生反乱の末路は、連合赤軍事件を経て、過激派の内ゲバへと至る。国民は社会運動よりも政党政治による漸進的な民主化を求めた。
列島改造ブームは地価の高騰を招く。翌73年には第1次石油危機に見舞われる。石油関連製品を中心に物価が高騰する。国民生活は「狂乱物価」の直撃を受ける。翌年、日本経済は戦後初めてのマイナス成長を記録する。高度経済成長は終わった。
日中国交正常化交渉は、台湾問題と中ソ対立の影響で難航する。中国の対日賠償請求権放棄の代償は大きかった。中国と台湾の二重承認の可能性が失われた。尖閣諸島の問題の政治決着は禍根を残した。日中共同声明の第7項の「覇権を確立しようとする」国の試みに「反対する」とは、中国側からすれば、日本もソ連包囲網に入ったことを意味した。国交正常化を急いだ日本外交の拙劣さが目立つ結果になった。
沖縄返還は「核抜き・本土並み」だったはずである。ところが69年の日米共同声明は「核抜き」を明記せず、核の再持ち込みの疑惑が残った。のちに2009年になって、有事の際の核再持ち込みを容認する密約の存在が明らかになった。「本土並み」からも遠かった。米軍基地の縮小・撤去は遅れた。日米地位協定の不平等性が本土以上に重くのしかかった。戦後は終わらなかった。
沖縄返還と密約
70年代の日本は、以上のような危機を、そのつど乗り越えた。
先進国首脳会議(サミット)への参加による先進国間の経済的国際協調と、脱石油化・省資源化による産業構造の改革は、日本経済を立ち直らせた。ユーミンが描くアッパーミドルのライフスタイルは夢ではなくなった。
国内政治は「保革伯仲」から「保革逆転」をうかがう勢いだった。与野党はどちらの政策の方がより早くより確実に「福祉国家」になれるかを競った。
脱冷戦の国際政治の多極化は、対米自立を促した。日本外交は、防衛力の整備を進めることで対米依存からの脱却を図りつつ、西ヨーロッパ諸国との協調にかじを切る。日本の外交地平は拡大する。朝鮮半島への緊張緩和の波及は、北朝鮮との関係改善志向を生む。他方で日本は、東南アジア諸国連合(ASEAN)との相互理解と信頼醸成を進める。
このように70年代は、もう一つの日本の可能性があったことを示すと同時に、今日の日本が直面する諸問題との共通性を意識させる。そうだとすれば、70年代から学べるのは、第一に少子高齢化社会の日本の持続的な発展をめぐり、与野党が政策を競うことである。
【漫画】日本で少子高齢化がこのまま進むとどうなってしまうのか【イヴイヴ漫画】
第二に日本外交は、一方では民主主義の価値を共有する先進国との多国間協調を基礎とする多角的な展開を図り、他方では日米同盟の責任分担による対等性を確保して、自立すべきである。
第三に階層移動が可能な社会の構築である。それには教育が重要であることは論をまたない。「親ガチャ」は社会階層を固定化する。そうではなく、誰にも等しく教育を受ける機会が与えられなければならない。自助努力が強調されがちな日本社会で、問われているのは教育の公共性である。
1970年代は歴史の教訓に満ちている。(学習院大教授、第3土曜日掲載)
私は1947年生まれですが、井上寿一先生のお陰で青春時代からこちらを、ざっと振り返ることが出来ました。「少子高齢化」は耳にタコが出来るほど聞こえていますが、インターネットスラングらしい「親ガチャ」なんて表現を今初めて知りました。なにせブログで相互訪問していると、ひと世代若い人たちの文面には、現代用語が出てくるたびにヒーヒー言いつつ、いつもググっております(笑)。
反対にひと世代若い人たちにこそ、上記に書かれている「70年代の日本がそのつど乗り越えてきた危機」を知っておいて欲しいですね。私も呆けつつある頭を目ざまさせていただき有難うございました。