メリル・ストリープ主演の『マーガレット・サッチャー〜鉄の女の涙』から
プリンストン発 新潮流アメリカ by 冷泉彰彦
サッチャリズムが、現代日本の参考には「ならない」3つの理由 抜粋
2013年04月09日(火)10時38分 Newsweek
マーガレット・サッチャー元英首相の訃報に接しました。87歳ですから大往生ですし、認知症の発症を公表してからの「静かなお別れ」の期間も十分にあったと思います。
ちなみに、この「引退後のサッチャー氏」に関しては、メリル・ストリープが演じてオスカーを取った "The Iron Lady"(邦題は『マーガレット・サッチャー〜鉄の女の涙』)という映画が作られています。賛否両論の激しかった彼女の政策や政治手法のフラッシュバックと、老いて衰えた同氏の姿を重ねることで、「バランスを取る」という不思議なアプローチの演出がされており、映画としては特殊な、そしてやはり政治的な作品だと言えると思います。
ところで、例えば安倍晋三首相は自分の「お手本にしている」と言っているようですが、果たして政策としての 「サッチャリズム」 というのは、現代日本の諸問題の解決に参考なるのでしょうか? この点に関しては、私は「ノー」であると思います。3点申し述べます。
1点目として、経済政策を考えてみましょう。現在の安倍首相のいわゆる「アベノミクス」つまり、「金融緩和、通貨価値の下落、公共投資増」という手法は、 「インフレ退治と財政規律」のために戦ったサッチャーとは正反対の政策 であり、「サッチャリズム」 を保守であるとすれば、「アベノミクス」は極端なまでにリベラルな経済政策であると言えます。
それはともかく、サッチャリズムというのは、仮にアベノミクスが失敗に終わって、日本経済が更に危険な水域に入った場合には、真剣に考えるべき政策になると思います。
サッチャーは確かに「既得権益」と戦いました。ですが、それは現業における組合労働者、つまり中間層あるいは庶民階層の権利を崩すというものでした。一方で、現在の日本経済の場合は、こうした種類の労働は既に海外移転もしくは非正規化されてしまっているわけで、問題は生産性の低いオフィスワークや世代間格差にあるわけです。この点でも、サッチャリズムは余り参考になりません。
2点目として、安倍首相は、サッチャーの教育政策が「自虐史観」を「追放した」として評価しています。ですが、これも日本の場合は条件が異なります。第2次大戦後の英国は、女王を含めた支配階級の合意によって「植民地の独立」と「帝国主義的権益の放棄」を国策としていました。サッチャーは70年代の後半の時点で教育におけるそうした「反省史観」を続けることに反対したわけですが、その際には英国は過去の権益は吐き出してしまっていて十分に貧しくなっていたのです。ですから、国際社会からの反対はなかったのです。
3番目として、フォークランド(アルゼンチンではマルビナス)諸島の問題で「果敢に戦った」ということを評価する向きもあるようです。このケースですが、尖閣の問題には適用できないと思います。現在の日本と中国は、1982年当時の英国とアルゼンチンと比較した場合に、経済的・社会的な関係の深さは全く次元が異なります。また東アジアにおける米国のプレゼンスを考えると、 フォークランドの際のように「米国が仲裁を投げ出す」可能性も低いでしょう。フォークランドと尖閣を重ねて考えるということは、尖閣の持つ政治的な複雑さを無視した議論だと言わざるを得ません。
ちなみに、前述のメリル・ストリープの映画ですが、基本的には「アンチ・サッチャー」の立場から作られた映画だと思います。冒頭シーンで、引退後のサッチャーが「牛乳を買いに行く」というエピソードがありますが、サッチャーと牛乳というのは深い因縁があるからです。というのは、1946年にアトリー内閣が実施した「子供たちの給食におけるミルクの無償配布」という法律をサッチャーは廃止したために、サッチャーは「ミルク・スナッチャー(牛乳を強奪した人物)」というニックネームを付けられているからです。
サッチャーが「牛乳を買いに行く」The Iron Lady - opening scene with the milk price
もっと言えば、韻を踏んだ「マギー・サッチャー・ミルク・スナッチャー」という表現まであるそうです。こうした前提からすると、「サッチャーがミルクを買いに行って、値段が高いので小さなサイズにした」という映画の冒頭のシーンは、強烈な皮肉以外の何物でもありません。政治的映画というのは、そうした意味です。
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う〜ん、ちと難しいが小父さんの場合は、映画の数々のシーンを思い出すね。サッチャー元首相の現役時代と言ったらフォークランド紛争の時の毅然とした姿勢とレーガン大統領と仲がよさそうなテレビくらいしか記憶にない。
英国では国葬が執り行われるらしいからやはり大政治家なんだろう。そんな人に誰でもあやかりたいよね。上の動画は作り話なのかも知れないが、いかにも大政治家が痴呆症も患いつつあったサッチャー女史の晩年を描いている感じだった。これが映画の最初のシーンなんだからけっこう強烈に思えた。
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サッチャリズムが、現代日本の参考には「ならない」3つの理由 抜粋
2013年04月09日(火)10時38分 Newsweek
マーガレット・サッチャー元英首相の訃報に接しました。87歳ですから大往生ですし、認知症の発症を公表してからの「静かなお別れ」の期間も十分にあったと思います。
ちなみに、この「引退後のサッチャー氏」に関しては、メリル・ストリープが演じてオスカーを取った "The Iron Lady"(邦題は『マーガレット・サッチャー〜鉄の女の涙』)という映画が作られています。賛否両論の激しかった彼女の政策や政治手法のフラッシュバックと、老いて衰えた同氏の姿を重ねることで、「バランスを取る」という不思議なアプローチの演出がされており、映画としては特殊な、そしてやはり政治的な作品だと言えると思います。
ところで、例えば安倍晋三首相は自分の「お手本にしている」と言っているようですが、果たして政策としての 「サッチャリズム」 というのは、現代日本の諸問題の解決に参考なるのでしょうか? この点に関しては、私は「ノー」であると思います。3点申し述べます。
1点目として、経済政策を考えてみましょう。現在の安倍首相のいわゆる「アベノミクス」つまり、「金融緩和、通貨価値の下落、公共投資増」という手法は、 「インフレ退治と財政規律」のために戦ったサッチャーとは正反対の政策 であり、「サッチャリズム」 を保守であるとすれば、「アベノミクス」は極端なまでにリベラルな経済政策であると言えます。
それはともかく、サッチャリズムというのは、仮にアベノミクスが失敗に終わって、日本経済が更に危険な水域に入った場合には、真剣に考えるべき政策になると思います。
サッチャーは確かに「既得権益」と戦いました。ですが、それは現業における組合労働者、つまり中間層あるいは庶民階層の権利を崩すというものでした。一方で、現在の日本経済の場合は、こうした種類の労働は既に海外移転もしくは非正規化されてしまっているわけで、問題は生産性の低いオフィスワークや世代間格差にあるわけです。この点でも、サッチャリズムは余り参考になりません。
2点目として、安倍首相は、サッチャーの教育政策が「自虐史観」を「追放した」として評価しています。ですが、これも日本の場合は条件が異なります。第2次大戦後の英国は、女王を含めた支配階級の合意によって「植民地の独立」と「帝国主義的権益の放棄」を国策としていました。サッチャーは70年代の後半の時点で教育におけるそうした「反省史観」を続けることに反対したわけですが、その際には英国は過去の権益は吐き出してしまっていて十分に貧しくなっていたのです。ですから、国際社会からの反対はなかったのです。
3番目として、フォークランド(アルゼンチンではマルビナス)諸島の問題で「果敢に戦った」ということを評価する向きもあるようです。このケースですが、尖閣の問題には適用できないと思います。現在の日本と中国は、1982年当時の英国とアルゼンチンと比較した場合に、経済的・社会的な関係の深さは全く次元が異なります。また東アジアにおける米国のプレゼンスを考えると、 フォークランドの際のように「米国が仲裁を投げ出す」可能性も低いでしょう。フォークランドと尖閣を重ねて考えるということは、尖閣の持つ政治的な複雑さを無視した議論だと言わざるを得ません。
ちなみに、前述のメリル・ストリープの映画ですが、基本的には「アンチ・サッチャー」の立場から作られた映画だと思います。冒頭シーンで、引退後のサッチャーが「牛乳を買いに行く」というエピソードがありますが、サッチャーと牛乳というのは深い因縁があるからです。というのは、1946年にアトリー内閣が実施した「子供たちの給食におけるミルクの無償配布」という法律をサッチャーは廃止したために、サッチャーは「ミルク・スナッチャー(牛乳を強奪した人物)」というニックネームを付けられているからです。
サッチャーが「牛乳を買いに行く」The Iron Lady - opening scene with the milk price
もっと言えば、韻を踏んだ「マギー・サッチャー・ミルク・スナッチャー」という表現まであるそうです。こうした前提からすると、「サッチャーがミルクを買いに行って、値段が高いので小さなサイズにした」という映画の冒頭のシーンは、強烈な皮肉以外の何物でもありません。政治的映画というのは、そうした意味です。
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う〜ん、ちと難しいが小父さんの場合は、映画の数々のシーンを思い出すね。サッチャー元首相の現役時代と言ったらフォークランド紛争の時の毅然とした姿勢とレーガン大統領と仲がよさそうなテレビくらいしか記憶にない。
英国では国葬が執り行われるらしいからやはり大政治家なんだろう。そんな人に誰でもあやかりたいよね。上の動画は作り話なのかも知れないが、いかにも大政治家が痴呆症も患いつつあったサッチャー女史の晩年を描いている感じだった。これが映画の最初のシーンなんだからけっこう強烈に思えた。
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