センバツ出場が決まり涙を流して喜ぶ日本航空石川の福森誠也選手(中央)=山梨県甲斐市で2024年1月26日午後4時、藤井達也撮影
毎日新聞 2024/1/26 18:36
被災者をはつらつプレーで勇気づけて――。日本航空石川は能登半島地震で100人以上の犠牲者が確認された石川県輪島市に校舎やグラウンドがある。発生から26日目。避難生活を送る同校の関係者らは、被災地からのセンバツ出場決定を喜び、日本航空石川ナインの甲子園での活躍を願った。
能登半島の中東部にある七尾市で避難所生活を送る早瀬舞子さん(67)は「自分を信じて頑張って」と孫の福森誠也投手(2年)に涙ぐみながらエールを送った。
1日午後4時過ぎ。輪島市内の自宅でトビウオのしょうゆ漬けなど、寝る間も惜しんで仕込んだ手料理の数々をこの日、七尾市から訪れた孫たちに振る舞おうとした時に「地獄みたいな揺れ」に襲われた。神棚が落ちて冷蔵庫が倒れ、窓ガラスが割れた。はがれた壁の下敷きになりかけた早瀬さんを助け出してくれたのが、誠也さんだった。
誠也さんは早瀬さんを背負うと靴下のまま、家から飛び出し、一時避難所になった近くのホテルまで運んだ。早瀬さんが孫の背中越しに見た近所の道は至る所でひび割れていた。津波に孫と一緒にのまれるのが怖くなり、「もういい。自分で歩く。置いていって」と告げても孫は「絶対にダメや!」と降ろそうとしなかった。
日本航空石川のセンバツ出場が決まり、避難所で涙ぐむ福森誠也投手の祖母・早瀬舞子さん=石川県七尾市で2024年1月26日午後3時55分、長谷川直亮撮影
小さい時からおちゃめで明るく、周りをホッとさせる存在だった。だが、その背はたくましい高校生のものになっていた。3日から七尾市内のコミュニティーセンターで一緒に避難所暮らしを続けたが、甲子園を目指す孫は17日に山梨へたった。
「昔から私を甲子園に連れて行くと言っていた。夢をかなえてくれた」。地震時に腰の骨を折っていたことが分かったが、春までに癒えれば、孫の名を入れた垂れ幕を作ってアルプススタンドに駆けつけるつもりだ。湧く喜びをゆっくりとかみしめるように、避難所で吉報を受け止めた関係者もいた。
避難所となった河原田公民館で拳を握りしめながら日本航空石川のセンバツ出場決定を見守った古谷裕さん=石川県輪島市西脇町で2024年1月26日午後3時57分、川地隆史撮影
日本航空石川の校舎から車で30分ほど離れた輪島市西脇町の河原田公民館長を務める古谷裕さん(66)。日本航空石川を運営する学校法人の理事長補佐の肩書を持つ。自宅も倒壊しかけたが、公民館が避難所となりその運営に奔走してきた。
数十人に上った避難者のとりまとめや相談、救援物資の受け入れ調整など目まぐるしい日が続く。26日もそうした作業の間を縫って、手を堅く握って日本航空石川の選出をオンライン中継で見守った。
古谷さんは輪島で生まれ育ち、地元の森林組合に職を得た。だが、2003年に同校が開校すると「過疎の地に若者がやってくる。希望だ」と翌年、同校の職員に転じた。
地震で河原田地区では、少なくとも5人が亡くなった。「地震さえ無かったらもっと喜べた」と唇をかみつつも「選手たちには心の片隅では輪島の代表だということを忘れず、底力を見せてほしい。その活躍は被災者を勇気づけるはずだ」と願った。【国本ようこ、川地隆史、砂押健太】
日本航空石川及び関係者の皆さん、センバツ出場を心からお祝い申し上げます。福森誠也投手、祖母の早瀬舞子さん、河原田公民館長の古谷裕さん、この記事を目にして心が温まる想いです。
今日も大きな地震が続いているようですし、震災復興には長い年月がかかると思いますが、高校野球をテレビで観る人たちにはきっと大きなプレゼントになると信じます。
毎日新聞 2024/1/26 18:36
被災者をはつらつプレーで勇気づけて――。日本航空石川は能登半島地震で100人以上の犠牲者が確認された石川県輪島市に校舎やグラウンドがある。発生から26日目。避難生活を送る同校の関係者らは、被災地からのセンバツ出場決定を喜び、日本航空石川ナインの甲子園での活躍を願った。
能登半島の中東部にある七尾市で避難所生活を送る早瀬舞子さん(67)は「自分を信じて頑張って」と孫の福森誠也投手(2年)に涙ぐみながらエールを送った。
1日午後4時過ぎ。輪島市内の自宅でトビウオのしょうゆ漬けなど、寝る間も惜しんで仕込んだ手料理の数々をこの日、七尾市から訪れた孫たちに振る舞おうとした時に「地獄みたいな揺れ」に襲われた。神棚が落ちて冷蔵庫が倒れ、窓ガラスが割れた。はがれた壁の下敷きになりかけた早瀬さんを助け出してくれたのが、誠也さんだった。
誠也さんは早瀬さんを背負うと靴下のまま、家から飛び出し、一時避難所になった近くのホテルまで運んだ。早瀬さんが孫の背中越しに見た近所の道は至る所でひび割れていた。津波に孫と一緒にのまれるのが怖くなり、「もういい。自分で歩く。置いていって」と告げても孫は「絶対にダメや!」と降ろそうとしなかった。
日本航空石川のセンバツ出場が決まり、避難所で涙ぐむ福森誠也投手の祖母・早瀬舞子さん=石川県七尾市で2024年1月26日午後3時55分、長谷川直亮撮影
小さい時からおちゃめで明るく、周りをホッとさせる存在だった。だが、その背はたくましい高校生のものになっていた。3日から七尾市内のコミュニティーセンターで一緒に避難所暮らしを続けたが、甲子園を目指す孫は17日に山梨へたった。
「昔から私を甲子園に連れて行くと言っていた。夢をかなえてくれた」。地震時に腰の骨を折っていたことが分かったが、春までに癒えれば、孫の名を入れた垂れ幕を作ってアルプススタンドに駆けつけるつもりだ。湧く喜びをゆっくりとかみしめるように、避難所で吉報を受け止めた関係者もいた。
避難所となった河原田公民館で拳を握りしめながら日本航空石川のセンバツ出場決定を見守った古谷裕さん=石川県輪島市西脇町で2024年1月26日午後3時57分、川地隆史撮影
日本航空石川の校舎から車で30分ほど離れた輪島市西脇町の河原田公民館長を務める古谷裕さん(66)。日本航空石川を運営する学校法人の理事長補佐の肩書を持つ。自宅も倒壊しかけたが、公民館が避難所となりその運営に奔走してきた。
数十人に上った避難者のとりまとめや相談、救援物資の受け入れ調整など目まぐるしい日が続く。26日もそうした作業の間を縫って、手を堅く握って日本航空石川の選出をオンライン中継で見守った。
古谷さんは輪島で生まれ育ち、地元の森林組合に職を得た。だが、2003年に同校が開校すると「過疎の地に若者がやってくる。希望だ」と翌年、同校の職員に転じた。
地震で河原田地区では、少なくとも5人が亡くなった。「地震さえ無かったらもっと喜べた」と唇をかみつつも「選手たちには心の片隅では輪島の代表だということを忘れず、底力を見せてほしい。その活躍は被災者を勇気づけるはずだ」と願った。【国本ようこ、川地隆史、砂押健太】
日本航空石川及び関係者の皆さん、センバツ出場を心からお祝い申し上げます。福森誠也投手、祖母の早瀬舞子さん、河原田公民館長の古谷裕さん、この記事を目にして心が温まる想いです。
今日も大きな地震が続いているようですし、震災復興には長い年月がかかると思いますが、高校野球をテレビで観る人たちにはきっと大きなプレゼントになると信じます。