2011年の8/25~8/28 北アルプスの長野・岐阜にまたがる奥穂高岳3,190mへ登山。(富士山3,776m、北岳3,193m。)小学校からの付き合いの友人と。
山登りは48年前、1963年(S38)の夏、高校1年・16才。霧島連峰を縦走してその魅力にとりつかれた。えびの高原~韓国岳・1,700m~噴火している新燃岳・1,421m~“大河ドラマ・竜馬伝”竜馬とお竜も登っていた高千穂峰・1,574mまでのコース。
それからというもの、博多の郊外の六甲山系のような尾根歩きをよくやったが、他のどの登山客よりも早く目的地に着くことだけを喜びとしていた。九州の屋根・九住山1,791mの山開きや雪の降る中で夏用テントでキャンプもやった。
26年後(42才)。1989年(H1)、息子のカブスカウト入隊。奈良の大峰山の麓の天川村に貸切バス2台でキャンプに飯炊き役でついて行った。大峰山(1719m)登山プログラムで自分の体力落ちを実感。仕事漬けの日々で足の筋肉が落ちて体重も重かったのか、小学校3年~高校生と指導者やお父さんたち約60人中でビリ。誰もいない山道をとぼとぼと登り、自分に対して情けないやら・悔しいやら、もう山に登れない体になってしまったと落胆。
17年後(59才)。2006年(H18)の7月のある日曜日の早朝に目が覚めて、家から釜谷池と他池の周りをカメラ持って歩いていた時、その美しさと朝のすがすがしさに感動。今からの長い人生に家からこんな近いところで散歩できる場所があるなんてと喜んだ。当時は、万歩計を付けて、5丁目~釜谷池~石が谷公園~未来ICT研究センター~ゴルフ練習場ザ・リンクス~カナート~高丘5丁目までの約1万歩を充実したウォーキングとしてを楽んでいた。
2年後(61才)の2008年(H20)に、ひょんなことから岡山にいる古い山の友達と六甲山系の摩耶山に登ることになった。現役の彼は新幹線でやってきて来て日帰りしてくれます。彼とは、1969年(S44)以来の39年ぶりの登山コンビ復活なったわけで、登山用のストック(杖)も買って有頂天になったものだ。そのウキウキ感は、団塊の世代のエレキギターを抱えた“おやじバンド”の人たちと同じ感覚だと思う。それから、毎月のように須磨アルプス、芦屋ロックガーデン、御影から六甲山頂を越えて有馬温泉で銭湯に入ったりしているうちに、友人が「北アルプスに行かないか」と言う。「歩く距離は六甲山とそんなに変わらない」というのでその誘いに乗りました。
ところが、2009年7月には北海道の大雪山系の高齢者登山教室の遭難で8名もの死亡者が出た直後。かみさんのうるさいことうるさいこと。アルプスでの遭難は費用がかなわん。体力的にも絶対無理!!!
そして、2009年の夏(62才)は、天国みたいな立山の雄山(3,003m)・大汝山(3,015m)へ。ところが大汝山から雄山に戻る山の斜面を横断する時の怖いこと左足ばかりに体重をかけて歩く。
2010年は、西穂高岳(2,909m)に挑戦したがとても険しい岩場の為、二つ手前の峰の西穂高独標(2,701m)から引き返す。
西穂高独標から岩場を下りてピラミッドピークに進むのは怖くて断念。下山途中で突如救助ヘリコプターが現れピラミッドピークから人を吊り上げたが、ご婦人が手の骨を折ったとのこと。両手、両足が使えなければこの山の登り下りは無理。
山に行く時は、1万歩コースも随分歩いたが、最近は石ヶ谷公園の階段を中心に足慣らし。今年の春くらいからは、だいたい階段の登り下り(7往復と3往復)の合計を2000段やっていて好調だった。
歩いていて田んぼの隅のバルブの水はどこからくるのか、井戸なのかといつも不思議に眺めていた。去年の講義にあった“明石のため池”つながりで釜谷池に流れ込むの前の池を確認したくて東播用水岩岡支線水路をたどってみる。ポンプ池という名。池の写真を撮って土手を降りる時、油断して草の急斜面を降りたら両足が止まらず、下のアスファルトに両膝を強く打ちつけた。骨に異常はなかったが、病院通い。怪我が治って、山行きのため、雨の日も炎天下も石ヶ谷公園のトレーニングに励んだ。
今夏の奥穂高岳、1日目、8/25に土砂降りの上高地(標高1,500m))に13時過ぎに着き~奥上高地の横尾山荘までの11km、この約4時間は雨の中でも楽しく歩けた。
2日目、8/26は、小雨。横尾山荘を6時20分に出発。6km、約5時間登って11時半に、涸沢(からさわ)小屋(2,300m)に着く。岩の道を登りながらしんどいのなんのって地獄だった。ふらふらなのに、相棒は昼食をとって頂上直下の穂高岳山荘まで雨の中を登ろうという。鏡を見たら血の気も引いて白い顔をしていた。
雨は降ったり止んだりだったが、山の霧がカーテンを引くように晴れるとすばらしい雪渓がひろがっていた。また雨が降り出したりして正直なところ、翌日の雨天を望み登山の中止を願っていた。
3日目、ところが、8/27起きたら快晴。これでは登らざるを得ない。6時5分、涸沢小屋を出発。この日の頂上までの標高差は、900m。11時間歩いた。涸沢小屋に戻ったのが17時です。
この8月7日落石事故で62才のお爺さんと8才のお孫さんが亡くなられた足元の悪い落石がいつでも起きそうな岩場の道。これは、上下の登山者が注意をする以外に方策はないだろう。穂高岳山荘に着いたのが、9時45分。連れは昨日中にこの山荘まで登ろうと言っていた。
そして頂上が11時40分。ガスがかかってなかったら富士山や槍ヶ岳も見える360度の大パノラマらしい。それから、下山して涸沢小屋まで戻ったのが約5時間、正に、「行きはよいよい帰りは怖い」岩の道だった。
疲れきっているはずなのに小屋の布団で寝付けないでいた。「今回はまるで難行苦行だ。俺はいったい、高い交通費や小屋代を払って何をしに来たのだろう?そもそも自分は山に向いていないのではないか!。今の年齢は、健康維持、老化防止くらいが合っていて体を鍛えるのは無理なのじゃないか?」などと悶々としていた。
ふと、気がついたら、去年の西穂高独標からピラミッドピーク行くのをあきらめたような岩場を、今日は必至でよじ登って、また下りもしていた。前へ進むことで頭がいっぱいで怖いなどと考える時間もなかった。
最終の8/28、晴れ。涸沢小屋を午前5時出発で下山。17km、7時間の道のりを上高地までよれよれでたどり着いたのが12時。4日間本当によく歩いた。
帰りの新幹線で相棒が北アルプスにの地図を取り出して、「来年はどこに登ろうか?」なんてルンルン気分。もう疲れて来年のことを考える余裕などなし。もう登山にうんざりしていた。
ところが、家に戻って写真の整理をしていると意外や意外、地獄の4日間にもけっこう楽しさが蘇ってくる。今から先、どんな山に登るかは未定だが「良いことが ときどきあって 生きる欲」という川柳のように、登山が人生の縮図のように思えてきた。「なぜ山に登るのか?」と聞かれたらこの句をその答えにしておこう(笑)。
でも、この8月の奥穂高岳行きで次の目標にしていた11月の“六甲全山縦走大会”須磨から宝塚までの50数kmへの参加は無理だと判断して見合わせることした。おわり。
上記は、2011年10月の高齢者大学で私の意見体験発表としてパワーポイントを作成した写真とその原稿です。当時64歳だが、体力こそ劣るものの確かに元気だった気がする。友人が誘ってくれて奥穂高岳に登頂できたのは、今考えると奇跡に思える。
小屋泊まり用のリュックにトレッキングシューズ2足他登山用具には今カビが生えかかっているよう~(泣)
一つ思い出した、「今が人生で一番楽しいひと時だ」とこの頃思っていたことを。
山登りは48年前、1963年(S38)の夏、高校1年・16才。霧島連峰を縦走してその魅力にとりつかれた。えびの高原~韓国岳・1,700m~噴火している新燃岳・1,421m~“大河ドラマ・竜馬伝”竜馬とお竜も登っていた高千穂峰・1,574mまでのコース。
それからというもの、博多の郊外の六甲山系のような尾根歩きをよくやったが、他のどの登山客よりも早く目的地に着くことだけを喜びとしていた。九州の屋根・九住山1,791mの山開きや雪の降る中で夏用テントでキャンプもやった。
26年後(42才)。1989年(H1)、息子のカブスカウト入隊。奈良の大峰山の麓の天川村に貸切バス2台でキャンプに飯炊き役でついて行った。大峰山(1719m)登山プログラムで自分の体力落ちを実感。仕事漬けの日々で足の筋肉が落ちて体重も重かったのか、小学校3年~高校生と指導者やお父さんたち約60人中でビリ。誰もいない山道をとぼとぼと登り、自分に対して情けないやら・悔しいやら、もう山に登れない体になってしまったと落胆。
17年後(59才)。2006年(H18)の7月のある日曜日の早朝に目が覚めて、家から釜谷池と他池の周りをカメラ持って歩いていた時、その美しさと朝のすがすがしさに感動。今からの長い人生に家からこんな近いところで散歩できる場所があるなんてと喜んだ。当時は、万歩計を付けて、5丁目~釜谷池~石が谷公園~未来ICT研究センター~ゴルフ練習場ザ・リンクス~カナート~高丘5丁目までの約1万歩を充実したウォーキングとしてを楽んでいた。
2年後(61才)の2008年(H20)に、ひょんなことから岡山にいる古い山の友達と六甲山系の摩耶山に登ることになった。現役の彼は新幹線でやってきて来て日帰りしてくれます。彼とは、1969年(S44)以来の39年ぶりの登山コンビ復活なったわけで、登山用のストック(杖)も買って有頂天になったものだ。そのウキウキ感は、団塊の世代のエレキギターを抱えた“おやじバンド”の人たちと同じ感覚だと思う。それから、毎月のように須磨アルプス、芦屋ロックガーデン、御影から六甲山頂を越えて有馬温泉で銭湯に入ったりしているうちに、友人が「北アルプスに行かないか」と言う。「歩く距離は六甲山とそんなに変わらない」というのでその誘いに乗りました。
ところが、2009年7月には北海道の大雪山系の高齢者登山教室の遭難で8名もの死亡者が出た直後。かみさんのうるさいことうるさいこと。アルプスでの遭難は費用がかなわん。体力的にも絶対無理!!!
そして、2009年の夏(62才)は、天国みたいな立山の雄山(3,003m)・大汝山(3,015m)へ。ところが大汝山から雄山に戻る山の斜面を横断する時の怖いこと左足ばかりに体重をかけて歩く。
2010年は、西穂高岳(2,909m)に挑戦したがとても険しい岩場の為、二つ手前の峰の西穂高独標(2,701m)から引き返す。
西穂高独標から岩場を下りてピラミッドピークに進むのは怖くて断念。下山途中で突如救助ヘリコプターが現れピラミッドピークから人を吊り上げたが、ご婦人が手の骨を折ったとのこと。両手、両足が使えなければこの山の登り下りは無理。
山に行く時は、1万歩コースも随分歩いたが、最近は石ヶ谷公園の階段を中心に足慣らし。今年の春くらいからは、だいたい階段の登り下り(7往復と3往復)の合計を2000段やっていて好調だった。
歩いていて田んぼの隅のバルブの水はどこからくるのか、井戸なのかといつも不思議に眺めていた。去年の講義にあった“明石のため池”つながりで釜谷池に流れ込むの前の池を確認したくて東播用水岩岡支線水路をたどってみる。ポンプ池という名。池の写真を撮って土手を降りる時、油断して草の急斜面を降りたら両足が止まらず、下のアスファルトに両膝を強く打ちつけた。骨に異常はなかったが、病院通い。怪我が治って、山行きのため、雨の日も炎天下も石ヶ谷公園のトレーニングに励んだ。
今夏の奥穂高岳、1日目、8/25に土砂降りの上高地(標高1,500m))に13時過ぎに着き~奥上高地の横尾山荘までの11km、この約4時間は雨の中でも楽しく歩けた。
2日目、8/26は、小雨。横尾山荘を6時20分に出発。6km、約5時間登って11時半に、涸沢(からさわ)小屋(2,300m)に着く。岩の道を登りながらしんどいのなんのって地獄だった。ふらふらなのに、相棒は昼食をとって頂上直下の穂高岳山荘まで雨の中を登ろうという。鏡を見たら血の気も引いて白い顔をしていた。
雨は降ったり止んだりだったが、山の霧がカーテンを引くように晴れるとすばらしい雪渓がひろがっていた。また雨が降り出したりして正直なところ、翌日の雨天を望み登山の中止を願っていた。
3日目、ところが、8/27起きたら快晴。これでは登らざるを得ない。6時5分、涸沢小屋を出発。この日の頂上までの標高差は、900m。11時間歩いた。涸沢小屋に戻ったのが17時です。
この8月7日落石事故で62才のお爺さんと8才のお孫さんが亡くなられた足元の悪い落石がいつでも起きそうな岩場の道。これは、上下の登山者が注意をする以外に方策はないだろう。穂高岳山荘に着いたのが、9時45分。連れは昨日中にこの山荘まで登ろうと言っていた。
そして頂上が11時40分。ガスがかかってなかったら富士山や槍ヶ岳も見える360度の大パノラマらしい。それから、下山して涸沢小屋まで戻ったのが約5時間、正に、「行きはよいよい帰りは怖い」岩の道だった。
疲れきっているはずなのに小屋の布団で寝付けないでいた。「今回はまるで難行苦行だ。俺はいったい、高い交通費や小屋代を払って何をしに来たのだろう?そもそも自分は山に向いていないのではないか!。今の年齢は、健康維持、老化防止くらいが合っていて体を鍛えるのは無理なのじゃないか?」などと悶々としていた。
ふと、気がついたら、去年の西穂高独標からピラミッドピーク行くのをあきらめたような岩場を、今日は必至でよじ登って、また下りもしていた。前へ進むことで頭がいっぱいで怖いなどと考える時間もなかった。
最終の8/28、晴れ。涸沢小屋を午前5時出発で下山。17km、7時間の道のりを上高地までよれよれでたどり着いたのが12時。4日間本当によく歩いた。
帰りの新幹線で相棒が北アルプスにの地図を取り出して、「来年はどこに登ろうか?」なんてルンルン気分。もう疲れて来年のことを考える余裕などなし。もう登山にうんざりしていた。
ところが、家に戻って写真の整理をしていると意外や意外、地獄の4日間にもけっこう楽しさが蘇ってくる。今から先、どんな山に登るかは未定だが「良いことが ときどきあって 生きる欲」という川柳のように、登山が人生の縮図のように思えてきた。「なぜ山に登るのか?」と聞かれたらこの句をその答えにしておこう(笑)。
でも、この8月の奥穂高岳行きで次の目標にしていた11月の“六甲全山縦走大会”須磨から宝塚までの50数kmへの参加は無理だと判断して見合わせることした。おわり。
上記は、2011年10月の高齢者大学で私の意見体験発表としてパワーポイントを作成した写真とその原稿です。当時64歳だが、体力こそ劣るものの確かに元気だった気がする。友人が誘ってくれて奥穂高岳に登頂できたのは、今考えると奇跡に思える。
小屋泊まり用のリュックにトレッキングシューズ2足他登山用具には今カビが生えかかっているよう~(泣)
一つ思い出した、「今が人生で一番楽しいひと時だ」とこの頃思っていたことを。