長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典で「平和への誓い」を読み上げる宮田隆さん=2022年8月9日午前11時14分、長崎市、吉本美奈子撮影
8月6日の広島原爆犠牲者慰霊祈念式典と今日8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の二つをテレビで拝見しましたが、私には今日の宮田隆さんの「平和への誓い」が特に響きましたので朝日新聞デジタルから転載させていただきます。
式典にもたくさんの歌がありましたが、30年前の職場に九州から応援に来ていただいた先輩がよく歌われていた「長崎の鐘」を下に添付いたします。
長崎の鐘 「作曲 古関裕而」 昭和24年 (唄 藤山一郎)
朝日新聞デジタル 2022年8月9日 12時34分
平和への誓い(全文)
まず初めに、ウクライナでの多くの犠牲者に心から哀悼の意を表します。容赦ない無差別攻撃は、77年前の無実の長崎市民が体験した原爆投下と重なります。断じて許せません。
今年2月24日、ウクライナに鳴り響く空襲警報のサイレンは、あのピカドンの恐怖そのものでした。77年前の8月のあの晴れた日、長崎に投下された原子爆弾の爆風によって、爆心地から2・4キロの自宅にいた5歳の私の小さな体は、8畳間から玄関口まで吹き飛ばされ、母親の胸の中で目覚めました。今もあの時の母親の胸の高鳴りが耳に残っています。
あの夜、山越えで我が家にたどり着いた看護婦さんは、髪は逆立ち、左目は飛び出し、小さな声で「水をください。」と言ったまま、私たち家族の目の前で絶命しました。爆心地の松山町へ救援に赴いた父は、黒焦げの焼死体となった叔父と叔母を発見し、その私の父も5年後に白血病で亡くなりました。
今、82歳の私は、10年前に発症したがんの悪化で苦悩の日々を過ごしています。しかし、多くの被爆者は、私以上の苦しみに耐えて生き抜いています。
本日ご列席の国会議員、県議会、市議会議員のリーダーの皆様、被爆者とじかに対面し、被爆者の心の痛みと被爆の実相を聞いて、世界に広く伝えてください。私は先の6月、ウィーンで開かれた核兵器禁止条約第1回締約国会議に参加し、会場や路上で横文字で「HIBAKUSHA」と書いたビブス、ゼッケンを着用して訴えました。
“Please, visit Nagasaki. To see is to believe, No more Nagasaki, Stop Ukraine”
第2次大戦から77年後の今、ロシアの核兵器の使用を示唆する警告によって、世界はいまや核戦争の危機に直面しています。日本の一部の国会議員の核共有論は、私たち被爆者が願う核の傘からの価値観の転換とは真逆です。核共有論は、「力には力」の旧来の核依存思考であり、断じて反対です。いまや核は抑止にあらず。今こそ日本は、核の傘からの価値観を転換し、平和国家の構築に全力を挙げるべきです。
そのためには、日本は歴史に学び、北東アジア非核兵器地帯を宣言し、日本国憲法第9条を厳守すること。あの第二次大戦の英霊約300万人と長崎原爆犠牲者約20万人の魂の叫びを込めて、二度と戦争をしない国民の強い意志と、国家としての戦争放棄は、戦後、確かに国民の命を守ってきました。対話による平和外交こそ、新たな時代への挑戦です。特に、被爆地選出の岸田首相の被爆者の心に響く大胆な行動をご期待申し上げます。
そして、日本政府は核兵器禁止条約に一刻も早く署名・批准してください。昨年発効した核兵器禁止条約は、私たち被爆者と全人類の宝です。この条約を守り、行動することは、唯一の被爆国である日本政府と私たち国民一人ひとりの責務であると信じます。締約国会議にオブザーバーとして参加した各国からも、この条約に対する熱烈な期待が発言され、私は会場で勇気をもらい、涙しました。
私たち被爆者は、この77年間、怒り苦しみ、悲しみも乗り越えて、生きてまいりました。これからも私たちは、世界の市民社会と世界の被害者、国民と連携して、核兵器のない明るい希望ある未来を信じて、さらにたくましく生きてまいります。核兵器禁止条約をバネに、新しい時代の始まりであることを自覚し、私たちは強い意志で、子ども、孫の時代に一日三食飯が食える「核兵器のない世界実現への願い」を引き継いでいくことをここに誓います。
2022年(令和4年)8月9日
被爆者代表 宮田隆
8月6日の広島原爆犠牲者慰霊祈念式典と今日8月9日の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典の二つをテレビで拝見しましたが、私には今日の宮田隆さんの「平和への誓い」が特に響きましたので朝日新聞デジタルから転載させていただきます。
式典にもたくさんの歌がありましたが、30年前の職場に九州から応援に来ていただいた先輩がよく歌われていた「長崎の鐘」を下に添付いたします。
長崎の鐘 「作曲 古関裕而」 昭和24年 (唄 藤山一郎)
朝日新聞デジタル 2022年8月9日 12時34分
平和への誓い(全文)
まず初めに、ウクライナでの多くの犠牲者に心から哀悼の意を表します。容赦ない無差別攻撃は、77年前の無実の長崎市民が体験した原爆投下と重なります。断じて許せません。
今年2月24日、ウクライナに鳴り響く空襲警報のサイレンは、あのピカドンの恐怖そのものでした。77年前の8月のあの晴れた日、長崎に投下された原子爆弾の爆風によって、爆心地から2・4キロの自宅にいた5歳の私の小さな体は、8畳間から玄関口まで吹き飛ばされ、母親の胸の中で目覚めました。今もあの時の母親の胸の高鳴りが耳に残っています。
あの夜、山越えで我が家にたどり着いた看護婦さんは、髪は逆立ち、左目は飛び出し、小さな声で「水をください。」と言ったまま、私たち家族の目の前で絶命しました。爆心地の松山町へ救援に赴いた父は、黒焦げの焼死体となった叔父と叔母を発見し、その私の父も5年後に白血病で亡くなりました。
今、82歳の私は、10年前に発症したがんの悪化で苦悩の日々を過ごしています。しかし、多くの被爆者は、私以上の苦しみに耐えて生き抜いています。
本日ご列席の国会議員、県議会、市議会議員のリーダーの皆様、被爆者とじかに対面し、被爆者の心の痛みと被爆の実相を聞いて、世界に広く伝えてください。私は先の6月、ウィーンで開かれた核兵器禁止条約第1回締約国会議に参加し、会場や路上で横文字で「HIBAKUSHA」と書いたビブス、ゼッケンを着用して訴えました。
“Please, visit Nagasaki. To see is to believe, No more Nagasaki, Stop Ukraine”
第2次大戦から77年後の今、ロシアの核兵器の使用を示唆する警告によって、世界はいまや核戦争の危機に直面しています。日本の一部の国会議員の核共有論は、私たち被爆者が願う核の傘からの価値観の転換とは真逆です。核共有論は、「力には力」の旧来の核依存思考であり、断じて反対です。いまや核は抑止にあらず。今こそ日本は、核の傘からの価値観を転換し、平和国家の構築に全力を挙げるべきです。
そのためには、日本は歴史に学び、北東アジア非核兵器地帯を宣言し、日本国憲法第9条を厳守すること。あの第二次大戦の英霊約300万人と長崎原爆犠牲者約20万人の魂の叫びを込めて、二度と戦争をしない国民の強い意志と、国家としての戦争放棄は、戦後、確かに国民の命を守ってきました。対話による平和外交こそ、新たな時代への挑戦です。特に、被爆地選出の岸田首相の被爆者の心に響く大胆な行動をご期待申し上げます。
そして、日本政府は核兵器禁止条約に一刻も早く署名・批准してください。昨年発効した核兵器禁止条約は、私たち被爆者と全人類の宝です。この条約を守り、行動することは、唯一の被爆国である日本政府と私たち国民一人ひとりの責務であると信じます。締約国会議にオブザーバーとして参加した各国からも、この条約に対する熱烈な期待が発言され、私は会場で勇気をもらい、涙しました。
私たち被爆者は、この77年間、怒り苦しみ、悲しみも乗り越えて、生きてまいりました。これからも私たちは、世界の市民社会と世界の被害者、国民と連携して、核兵器のない明るい希望ある未来を信じて、さらにたくましく生きてまいります。核兵器禁止条約をバネに、新しい時代の始まりであることを自覚し、私たちは強い意志で、子ども、孫の時代に一日三食飯が食える「核兵器のない世界実現への願い」を引き継いでいくことをここに誓います。
2022年(令和4年)8月9日
被爆者代表 宮田隆