指導する市民ランナーに優しいまなざしを向ける谷口浩美さん=宮崎市の宮崎大木花キャンパスで、平川義之撮影
迫る 五輪後の「42.195キロ」(その1) 谷口浩美さん
毎日新聞 2021/8/1 東京朝刊 有料記事
メダル逃して得た走り バルセロナ8位 谷口浩美さん
五輪に出場する選手はメダル獲得への重圧を背負い、戦う。勝てば喝采を浴びるが、敗れれば悲壮感が漂う。数ある競技の中でも花形とされるマラソンの「勝敗」は、人々の記憶に刻まれてきた。
1996年アトランタ五輪で有森裕子さん(54)は銅メダルを獲得し「初めて自分で自分を褒めたいと思います」と涙を浮かべた。「すごく楽しい42キロでした」。2000年シドニー五輪で金メダルに輝いた高橋尚子さん(49)の笑顔はまぶしかった。ただ、注目されるのは歓喜のメダリストだけではない。中でもこの一言は、五輪に対する見方を変えたのかもしれない。
1992年8月のバルセロナ五輪、陸上男子マラソンで41キロ付近を力走する谷口さん=スペイン・バルセロナで、高橋勝視撮影
「こけちゃいました」谷口浩美さん(61)は、92年バルセロナ五輪男子マラソンで8位に終わったレースの後、すがすがしい笑顔でこう話した。
当時32歳。陸上の名門、旭化成の看板を背負い、メダル候補と期待を集めての出場だった。だが、22・5キロ付近の給水所で水を手にした直後、左足のかかとを後続選手に踏まれ、転倒。すぐさま立ち上がり、脱げた左足の靴を急いで履いたが、タイムロスもあって表彰台には食い込めなかった。
このアクシデントを素直な言葉で表現した時のことを、谷口さんは述懐する。「転んだ場面はテレビに映っていないと思い、そのままを伝えただけでした。テレビを見ていた人はびっくりしたのでしょう。その後のイベントなどでも周囲から『今日は靴は脱げないかね』とよく言われたものです」。悲壮感がない姿は新鮮に映った。
こけても「いいんだ」
バルセロナ五輪の前、谷口さんは思いがけずマラソン界の名選手の生涯に触れる出会いをした。東京で91年9月に開かれた世界選手権男子マラソンで、谷口さんは優勝。表彰式では国立競技場のセンターポールに日の丸が掲げられた。ドーピング検査を終えて競技場を出ると、一人の女性が立っていた。「おめでとうございます。円谷幸吉の姉です」。隣にいた旭化成の先輩、宗猛さんが直立不動であいさつした。谷口さんも慌てて頭を下げる。実はこの時、円谷さんのことをよく知らなかった。
「円谷頑張れ! 円谷頑張れ!」。実況のアナウンサーが連呼したのは、64年10月21日。東京五輪の男子マラソンは、大会の終盤を飾るにふさわしい盛り上がりを見せた。歓声が響く国立競技場に円谷さんが2位で戻ってきた。トラックで英国選手に抜かれ3位でフィニッシュしたものの、陸上競技では日本選手で戦後初の表彰台だった。
ところがメキシコ五輪を控えた68年、円谷さんは「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と遺書を残し、27歳で自ら命を絶った。国の名誉や国民の期待……。故障で走れず精神的に苦しんだことなどが理由とされた。五輪のメダル獲得へ、過剰な期待が生んだ悲劇だった。
谷口さんは、円谷さんの姉との出会いから「円谷さんのことを知りたい」と本を読み、「生家に行きたい」と訴えたが、周囲の反対は強かった。「五輪を前に重圧にならないようにと、周りが気を使って止めてくれたのかな」と振り返る。
円谷さんが走った時代の空気は変化し、谷口さんの「こけちゃいました」は好意的に受け止められた。同じレースで銀メダルを獲得した森下広一さんの話題以上にメディアで取り上げられたのも、その証左だ。
「一番戸惑ったのは私でした。91年の世界選手権で優勝したけれど、バルセロナ五輪では8位にしかなれなかったので。話題になってうれしい半面、同じ旭化成の森下に申し訳ない気持ちは残っています」
確かに、代表選手としての違和感はあった。それでも、日本選手団副団長で日本バレーボール協会会長の松平康隆さんからは、前向きな言葉を掛けられた。
「松平さんから『あれでスポーツ界は救われたし、スポーツの見方を変えてくれた』と言ってもらいました。スポーツを楽しんでくれる人が増えれば、選手は勝っても負けても頑張ればいいんだ、という気はしました」
96年アトランタ五輪は19位に終わった。翌年に現役を引退し、約15年間、指導者を務めた。17年には知人の副学長に誘われ、宮崎大の特別教授に就いた。かつて教員を目指していたが、教員試験に3回落ちて競技に専念する道を選んでいた。「最初に願った教員という職業に就けました。健康を維持しながらチャレンジする人に教えるのは面白い」。フルマラソンの完走を目指す市民向けの同大公開講座で講師をしている。
4月の聖火リレーでは、宮崎県日南市をランナーとして走った。6月の講座では自身が使った聖火のトーチと91年世界選手権の金メダルを参加者に渡し、記念撮影をしてもらった。「これが金メダルだと手にしてもらいたい。体験してもらうのが僕のやり方です」
あの時の五輪――。メダルに手が届かなかったマラソン選手のその後を追った。<取材・文 新井隆一>
いい記事に出会えた!円谷幸吉さんが亡くなった時は、大きな衝撃を受け、大学ノートの日記にも記しいていたね。三島由紀夫も「円谷幸吉さんの遺書ほどの名文はない」と絶賛していたこともよく覚えている。そして谷口浩美さんに宗猛さんとが上の記事のような出会いもあったとは!私は福岡で育ったので朝日国際マラソンにも触れ、分かりやすいマラソンレースはスポーツの中でも一番親しんで来た。8月8日午前6時45分から放送の、東京2020オリピック男子マラソンは是非ともライブで応援しなくては!前日の女子マラソンともども録画予約はしているのだが・・・(笑)。
迫る 五輪後の「42.195キロ」(その1) 谷口浩美さん
毎日新聞 2021/8/1 東京朝刊 有料記事
メダル逃して得た走り バルセロナ8位 谷口浩美さん
五輪に出場する選手はメダル獲得への重圧を背負い、戦う。勝てば喝采を浴びるが、敗れれば悲壮感が漂う。数ある競技の中でも花形とされるマラソンの「勝敗」は、人々の記憶に刻まれてきた。
1996年アトランタ五輪で有森裕子さん(54)は銅メダルを獲得し「初めて自分で自分を褒めたいと思います」と涙を浮かべた。「すごく楽しい42キロでした」。2000年シドニー五輪で金メダルに輝いた高橋尚子さん(49)の笑顔はまぶしかった。ただ、注目されるのは歓喜のメダリストだけではない。中でもこの一言は、五輪に対する見方を変えたのかもしれない。
1992年8月のバルセロナ五輪、陸上男子マラソンで41キロ付近を力走する谷口さん=スペイン・バルセロナで、高橋勝視撮影
「こけちゃいました」谷口浩美さん(61)は、92年バルセロナ五輪男子マラソンで8位に終わったレースの後、すがすがしい笑顔でこう話した。
当時32歳。陸上の名門、旭化成の看板を背負い、メダル候補と期待を集めての出場だった。だが、22・5キロ付近の給水所で水を手にした直後、左足のかかとを後続選手に踏まれ、転倒。すぐさま立ち上がり、脱げた左足の靴を急いで履いたが、タイムロスもあって表彰台には食い込めなかった。
このアクシデントを素直な言葉で表現した時のことを、谷口さんは述懐する。「転んだ場面はテレビに映っていないと思い、そのままを伝えただけでした。テレビを見ていた人はびっくりしたのでしょう。その後のイベントなどでも周囲から『今日は靴は脱げないかね』とよく言われたものです」。悲壮感がない姿は新鮮に映った。
こけても「いいんだ」
バルセロナ五輪の前、谷口さんは思いがけずマラソン界の名選手の生涯に触れる出会いをした。東京で91年9月に開かれた世界選手権男子マラソンで、谷口さんは優勝。表彰式では国立競技場のセンターポールに日の丸が掲げられた。ドーピング検査を終えて競技場を出ると、一人の女性が立っていた。「おめでとうございます。円谷幸吉の姉です」。隣にいた旭化成の先輩、宗猛さんが直立不動であいさつした。谷口さんも慌てて頭を下げる。実はこの時、円谷さんのことをよく知らなかった。
「円谷頑張れ! 円谷頑張れ!」。実況のアナウンサーが連呼したのは、64年10月21日。東京五輪の男子マラソンは、大会の終盤を飾るにふさわしい盛り上がりを見せた。歓声が響く国立競技場に円谷さんが2位で戻ってきた。トラックで英国選手に抜かれ3位でフィニッシュしたものの、陸上競技では日本選手で戦後初の表彰台だった。
ところがメキシコ五輪を控えた68年、円谷さんは「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と遺書を残し、27歳で自ら命を絶った。国の名誉や国民の期待……。故障で走れず精神的に苦しんだことなどが理由とされた。五輪のメダル獲得へ、過剰な期待が生んだ悲劇だった。
谷口さんは、円谷さんの姉との出会いから「円谷さんのことを知りたい」と本を読み、「生家に行きたい」と訴えたが、周囲の反対は強かった。「五輪を前に重圧にならないようにと、周りが気を使って止めてくれたのかな」と振り返る。
円谷さんが走った時代の空気は変化し、谷口さんの「こけちゃいました」は好意的に受け止められた。同じレースで銀メダルを獲得した森下広一さんの話題以上にメディアで取り上げられたのも、その証左だ。
「一番戸惑ったのは私でした。91年の世界選手権で優勝したけれど、バルセロナ五輪では8位にしかなれなかったので。話題になってうれしい半面、同じ旭化成の森下に申し訳ない気持ちは残っています」
確かに、代表選手としての違和感はあった。それでも、日本選手団副団長で日本バレーボール協会会長の松平康隆さんからは、前向きな言葉を掛けられた。
「松平さんから『あれでスポーツ界は救われたし、スポーツの見方を変えてくれた』と言ってもらいました。スポーツを楽しんでくれる人が増えれば、選手は勝っても負けても頑張ればいいんだ、という気はしました」
96年アトランタ五輪は19位に終わった。翌年に現役を引退し、約15年間、指導者を務めた。17年には知人の副学長に誘われ、宮崎大の特別教授に就いた。かつて教員を目指していたが、教員試験に3回落ちて競技に専念する道を選んでいた。「最初に願った教員という職業に就けました。健康を維持しながらチャレンジする人に教えるのは面白い」。フルマラソンの完走を目指す市民向けの同大公開講座で講師をしている。
4月の聖火リレーでは、宮崎県日南市をランナーとして走った。6月の講座では自身が使った聖火のトーチと91年世界選手権の金メダルを参加者に渡し、記念撮影をしてもらった。「これが金メダルだと手にしてもらいたい。体験してもらうのが僕のやり方です」
あの時の五輪――。メダルに手が届かなかったマラソン選手のその後を追った。<取材・文 新井隆一>
いい記事に出会えた!円谷幸吉さんが亡くなった時は、大きな衝撃を受け、大学ノートの日記にも記しいていたね。三島由紀夫も「円谷幸吉さんの遺書ほどの名文はない」と絶賛していたこともよく覚えている。そして谷口浩美さんに宗猛さんとが上の記事のような出会いもあったとは!私は福岡で育ったので朝日国際マラソンにも触れ、分かりやすいマラソンレースはスポーツの中でも一番親しんで来た。8月8日午前6時45分から放送の、東京2020オリピック男子マラソンは是非ともライブで応援しなくては!前日の女子マラソンともども録画予約はしているのだが・・・(笑)。