「本当に危険と思ったのは戦争中のボスニア」だったと。
(昭和2年 東京生まれ、 五・一五事件で暗殺された 犬養毅 元首相のひ孫)
1991年 63歳で国連難民高等弁務官に就任
「紛争がなくなった時代というのはないんでしょう。だけど共存ということを、
もっときちんと考えなけれないけない。だって人間だもの みんなね・・・(略)」
ニュースをぼんやりと見ていたが、すぐ上の「紛争がなくなった時代というのはないんでしょう。・・・」の会見を聞いて綺麗ごとばかり言っている政治家とは違う言葉に接した。
小父さんが、緒方さんみたいなテーマに何ひとつ関わっているわけではないが、考え方だけでもしっかり受け止めていく必要があるだろう。このような方こそノーベル平和賞候補ではなかったんではないでしょうか。
緒方貞子さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
緒方貞子さん死去 日本人初の国連難民高等弁務官
NHK NEWSWEB 2019年10月29日 18時08分
日本人として初めてUNHCR=国連難民高等弁務官事務所の高等弁務官を務めた緒方貞子さんが亡くなりました。92歳でした。難民など困難な状況にある人々の保護と支援に尽くした緒方さんの死に世界各地から追悼の声が寄せられています。
緒方さんの葬儀は29日午後、都内の教会で営まれ、親族や生前、緒方さんと親交のあった人たちが参列し、緒方さんと同じ聖心女子大学を卒業し親交を続けてきた上皇后さまも弔問されました。
緒方貞子さんは昭和2年(1927)に東京で生まれ、外交官の父親の転勤で幼少期を海外で過ごしたあと、聖心女子大学を卒業してアメリカの大学や大学院で学びました。
その後、日本の大学で教べんを取っていた際に国連の代表団に加わり、昭和51年(1976)には日本の国連公使に女性として初めて就任し、平成3年(1991)から平成12年(2000)までの10年間は日本人として初めてUNHCR=国連難民高等弁務官事務所の高等弁務官を務めました。
緒方さんの在任中には旧ユーゴスラビアやアフリカのルワンダなど世界各地で相次いだ内戦や民族紛争、虐殺により大量の難民が発生し、緒方さんはみずから現場に足を運んで支援の陣頭指揮に当たりました。
また1990年代に多くのクルド人がトルコに入国を拒否された際には、UNHCRとして国外に逃れた難民だけでなく国内で行き場を失った避難民も保護の対象とするという新たな方針を打ち出し、国際社会全体で困難な状況にある人々を保護すべきだと訴え続けました。
こうした緒方さんの訴えは国家主体の安全保障という概念から人間一人ひとりの安全の確保を中心に据える「人間の安全保障」という理念に結実し、2001年には国連に「人間の安全保障委員会」が設立されて緒方さんみずからが共同議長を務めました。
緒方さんはその後もさまざまな立場から生涯にわたって紛争や貧困などの困難に直面する人々の支援に尽くしました。
緒方さんは先月、92歳になったばかりで、緒方さんを「恩師」と慕う国連の軍縮部門の中満泉事務次長は「ただただショックです。いちばん弱い立場の人たちに常に寄り添った真のリーダーでした」とその死を悼んでいました。
またコソボのレオン・マラゾーグ駐日大使は緒方さんが旧ユーゴスラビアのコソボ自治州での民族紛争による難民の支援に尽くしたことに言及し、「世界から緒方さんが失われたことを知り悲しみに暮れている。コソボは最も困難な時期にわれわれのそばにいてくれた緒方さんのことを忘れません」と追悼しました。
晩年はアフガンの復興に尽力
緒方さんが晩年、力を注いでいたのがアフガニスタンの復興です。
アフガニスタンでは、旧ソビエトの侵攻をきっかけに大量の難民が発生しており、国連難民高等弁務官事務所の高等弁務官時代から関心を抱いてきたといいます。
同時多発テロ事件を受けてアメリカの軍事作戦が始まった2001年には、日本政府の総理大臣特別代表に就任。その際、「アフガニスタンは難民問題の中で、いちばん積み残しになっている問題だ」と決意を述べ、復興に向けて日本が中心的な役割を果たすことの重要性を強調しました。
2002年には、東京で初めて開かれたアフガニスタン復興支援会議の共同議長を務め、難民の帰還や地雷の除去、それに女性の地位向上などを重点分野とする日本の支援策を取りまとめました。
一方、アフガニスタンをたびたび訪問し、日本政府が進めるインフラ整備をはじめとした復興支援プロジェクトの進捗(しんちょく)状況を視察するなど、「現場主義」を徹底しました。
「アフガニスタンは、国際社会が紛争を解決して安定に向かわせる1つのテストケースであり、失敗させるわけにはいかない」と強い思いを抱いていた緒方さん。しかし、反政府武装勢力タリバンが台頭する中、アフガニスタンは治安の悪化に歯止めがかからず、復興に向けた道のりは遠いのが現状です。・・・(略)
(昭和2年 東京生まれ、 五・一五事件で暗殺された 犬養毅 元首相のひ孫)
1991年 63歳で国連難民高等弁務官に就任
「紛争がなくなった時代というのはないんでしょう。だけど共存ということを、
もっときちんと考えなけれないけない。だって人間だもの みんなね・・・(略)」
ニュースをぼんやりと見ていたが、すぐ上の「紛争がなくなった時代というのはないんでしょう。・・・」の会見を聞いて綺麗ごとばかり言っている政治家とは違う言葉に接した。
小父さんが、緒方さんみたいなテーマに何ひとつ関わっているわけではないが、考え方だけでもしっかり受け止めていく必要があるだろう。このような方こそノーベル平和賞候補ではなかったんではないでしょうか。
緒方貞子さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。
緒方貞子さん死去 日本人初の国連難民高等弁務官
NHK NEWSWEB 2019年10月29日 18時08分
日本人として初めてUNHCR=国連難民高等弁務官事務所の高等弁務官を務めた緒方貞子さんが亡くなりました。92歳でした。難民など困難な状況にある人々の保護と支援に尽くした緒方さんの死に世界各地から追悼の声が寄せられています。
緒方さんの葬儀は29日午後、都内の教会で営まれ、親族や生前、緒方さんと親交のあった人たちが参列し、緒方さんと同じ聖心女子大学を卒業し親交を続けてきた上皇后さまも弔問されました。
緒方貞子さんは昭和2年(1927)に東京で生まれ、外交官の父親の転勤で幼少期を海外で過ごしたあと、聖心女子大学を卒業してアメリカの大学や大学院で学びました。
その後、日本の大学で教べんを取っていた際に国連の代表団に加わり、昭和51年(1976)には日本の国連公使に女性として初めて就任し、平成3年(1991)から平成12年(2000)までの10年間は日本人として初めてUNHCR=国連難民高等弁務官事務所の高等弁務官を務めました。
緒方さんの在任中には旧ユーゴスラビアやアフリカのルワンダなど世界各地で相次いだ内戦や民族紛争、虐殺により大量の難民が発生し、緒方さんはみずから現場に足を運んで支援の陣頭指揮に当たりました。
また1990年代に多くのクルド人がトルコに入国を拒否された際には、UNHCRとして国外に逃れた難民だけでなく国内で行き場を失った避難民も保護の対象とするという新たな方針を打ち出し、国際社会全体で困難な状況にある人々を保護すべきだと訴え続けました。
こうした緒方さんの訴えは国家主体の安全保障という概念から人間一人ひとりの安全の確保を中心に据える「人間の安全保障」という理念に結実し、2001年には国連に「人間の安全保障委員会」が設立されて緒方さんみずからが共同議長を務めました。
緒方さんはその後もさまざまな立場から生涯にわたって紛争や貧困などの困難に直面する人々の支援に尽くしました。
緒方さんは先月、92歳になったばかりで、緒方さんを「恩師」と慕う国連の軍縮部門の中満泉事務次長は「ただただショックです。いちばん弱い立場の人たちに常に寄り添った真のリーダーでした」とその死を悼んでいました。
またコソボのレオン・マラゾーグ駐日大使は緒方さんが旧ユーゴスラビアのコソボ自治州での民族紛争による難民の支援に尽くしたことに言及し、「世界から緒方さんが失われたことを知り悲しみに暮れている。コソボは最も困難な時期にわれわれのそばにいてくれた緒方さんのことを忘れません」と追悼しました。
晩年はアフガンの復興に尽力
緒方さんが晩年、力を注いでいたのがアフガニスタンの復興です。
アフガニスタンでは、旧ソビエトの侵攻をきっかけに大量の難民が発生しており、国連難民高等弁務官事務所の高等弁務官時代から関心を抱いてきたといいます。
同時多発テロ事件を受けてアメリカの軍事作戦が始まった2001年には、日本政府の総理大臣特別代表に就任。その際、「アフガニスタンは難民問題の中で、いちばん積み残しになっている問題だ」と決意を述べ、復興に向けて日本が中心的な役割を果たすことの重要性を強調しました。
2002年には、東京で初めて開かれたアフガニスタン復興支援会議の共同議長を務め、難民の帰還や地雷の除去、それに女性の地位向上などを重点分野とする日本の支援策を取りまとめました。
一方、アフガニスタンをたびたび訪問し、日本政府が進めるインフラ整備をはじめとした復興支援プロジェクトの進捗(しんちょく)状況を視察するなど、「現場主義」を徹底しました。
「アフガニスタンは、国際社会が紛争を解決して安定に向かわせる1つのテストケースであり、失敗させるわけにはいかない」と強い思いを抱いていた緒方さん。しかし、反政府武装勢力タリバンが台頭する中、アフガニスタンは治安の悪化に歯止めがかからず、復興に向けた道のりは遠いのが現状です。・・・(略)