毎日新聞 2012年12月04日 東京朝刊 <ka−ron>
師走となれば「今年の流行歌は」と思いめぐらせることはなくなった。流行歌という言葉自体、あまり聞かない。世情のうつろいや空気を映した「世につれ」という歌が少なくなったせいか。
故浜口庫之助(はまぐちくらのすけ)さんは昭和の大ヒットメーカーだった。
「夜霧よ今夜も有難(ありがと)う」「バラが咲いた」「人生いろいろ」「黄色いさくらんぼ」など、作詞・作曲、あるいは作曲で生み出したヒット曲は挙げればきりがない。
どれもその時代を映すが、初期の「僕は泣いちっち」も思い出深い。守屋浩(もりやひろし)の歌で発売したのは1959年秋だった。経済成長で若い労働力を都会が吸収していた。
僕は泣いちっち 守屋浩 歌詞情報 - goo 音楽
浜口さんは自伝「ハマクラの音楽いろいろ」(朝日新聞社)でこう書いている。
<都会の過密化が社会問題になっていた。都会ばかりに人が集まり、地方の過疎化が目立ってきた。僕は、みなが都会をめざすなかで、残された人たちのことを思った>
歌の主人公は、恋人が東京に行ってしまった青年。「どうして東京がいいんだろ」と嘆じ、祭り太鼓にも浮き立たない。そして自分も東京へ行こう、と心に決めるのだ。
歌詞の「泣いちっち」や「行っちっち」の「ちっち」に、すねた感じがよく出ていて面白く、小学生だった私も口ずさんだ。だが、20歳前後の若者たちには笑いごとではなく、ひときわ染みるものがあったに違いない。
この歌には心動かされる逸話がある。同書で知った。
これが初のヒットになって間もない1960年ごろ、浜口さんが通りと壁をはさんだトイレに入った時のこと。
遠くから次第に近づいてくるチンドン屋の音色。クラリネット、どこかで聴いたような節だと思ったら「僕は泣いちっち」だった。浜口さんは体が震え、涙がこぼれた。
<歌が流行(はや)ることの歓(よろこ)びを、こんなに身にしみて感じたのははじめてだった。どんな立派な賞をもらうよりも、どんな大きな舞台で演奏されるよりも、この小さな街の商店街で、チンドン屋さんが流していってくれる方が、どんなに嬉(うれ)しいかわからない。それが流行歌の本当の存在感ではないだろうか>
後年、浜口さんは叙勲の打診があったが、辞退している。その心持ちを同書でこう言い表す。
<ここで勲章を受けたりしたら、いままで僕がやってきたことは、何だったのか、ということになる。僕は、あくまで大衆のために歌を作り続けてきたのだ>
90年12月2日、73歳で死去し今月で22年。その歌は絶えない。(専門編集委員)
ほーっ、数えたら小父さんはまだ12歳!それにしてはこの歌はよく歌った記憶がある。たぶん、とても長い間唄われていたんだろう。本当!東京はうわばみみたいに人をよく飲みこんで行った。福岡の中学の同窓などは3年くらいして福岡に舞い戻った者の方が多い気がする。
チューリップの財津和夫や海援隊の武田鉄矢なんかもそんなことをどこかに書いていた。彼らの影にはすぐに故郷に帰った人たちがごまんといるのだろう。ちなみに小父さんの兄も姉二人もまだ東京付近で暮らしている。あと血縁では甥が4人いるのか!
ハマクラさん「この小さな街の商店街で、チンドン屋さんが流していってくれる方が、どんなに嬉しいかわからない。」というエピソードが心に沁みる。一時は、ハマクラさん、涙くんさよなら(坂本九)、愛して愛して愛しちゃったのよ(田代美代子)、星のフラメンコ(西郷輝彦)、夕陽が泣いている(ザ・スパイダース)、花と小父さん(伊東きよ子)、みんな夢の中(高田恭子)、空に太陽がある限り(にしきのあきら)、恍惚のブルース(青江三奈)などなど、どれもこれも爆発的に売れたね。その始まりに「僕は泣いちっち」があったのか!凄い人は純な心の持ち主なんだ!
AFPBBNews生きた草花が揺れるファッションショー
植木鉢をぶら下げたスカート(笑)もあったよ〜!ファッションショウーって文化を引っ張って行くのかな〜???
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師走となれば「今年の流行歌は」と思いめぐらせることはなくなった。流行歌という言葉自体、あまり聞かない。世情のうつろいや空気を映した「世につれ」という歌が少なくなったせいか。
故浜口庫之助(はまぐちくらのすけ)さんは昭和の大ヒットメーカーだった。
「夜霧よ今夜も有難(ありがと)う」「バラが咲いた」「人生いろいろ」「黄色いさくらんぼ」など、作詞・作曲、あるいは作曲で生み出したヒット曲は挙げればきりがない。
どれもその時代を映すが、初期の「僕は泣いちっち」も思い出深い。守屋浩(もりやひろし)の歌で発売したのは1959年秋だった。経済成長で若い労働力を都会が吸収していた。
僕は泣いちっち 守屋浩 歌詞情報 - goo 音楽
浜口さんは自伝「ハマクラの音楽いろいろ」(朝日新聞社)でこう書いている。
<都会の過密化が社会問題になっていた。都会ばかりに人が集まり、地方の過疎化が目立ってきた。僕は、みなが都会をめざすなかで、残された人たちのことを思った>
歌の主人公は、恋人が東京に行ってしまった青年。「どうして東京がいいんだろ」と嘆じ、祭り太鼓にも浮き立たない。そして自分も東京へ行こう、と心に決めるのだ。
歌詞の「泣いちっち」や「行っちっち」の「ちっち」に、すねた感じがよく出ていて面白く、小学生だった私も口ずさんだ。だが、20歳前後の若者たちには笑いごとではなく、ひときわ染みるものがあったに違いない。
この歌には心動かされる逸話がある。同書で知った。
これが初のヒットになって間もない1960年ごろ、浜口さんが通りと壁をはさんだトイレに入った時のこと。
遠くから次第に近づいてくるチンドン屋の音色。クラリネット、どこかで聴いたような節だと思ったら「僕は泣いちっち」だった。浜口さんは体が震え、涙がこぼれた。
<歌が流行(はや)ることの歓(よろこ)びを、こんなに身にしみて感じたのははじめてだった。どんな立派な賞をもらうよりも、どんな大きな舞台で演奏されるよりも、この小さな街の商店街で、チンドン屋さんが流していってくれる方が、どんなに嬉(うれ)しいかわからない。それが流行歌の本当の存在感ではないだろうか>
後年、浜口さんは叙勲の打診があったが、辞退している。その心持ちを同書でこう言い表す。
<ここで勲章を受けたりしたら、いままで僕がやってきたことは、何だったのか、ということになる。僕は、あくまで大衆のために歌を作り続けてきたのだ>
90年12月2日、73歳で死去し今月で22年。その歌は絶えない。(専門編集委員)
ほーっ、数えたら小父さんはまだ12歳!それにしてはこの歌はよく歌った記憶がある。たぶん、とても長い間唄われていたんだろう。本当!東京はうわばみみたいに人をよく飲みこんで行った。福岡の中学の同窓などは3年くらいして福岡に舞い戻った者の方が多い気がする。
チューリップの財津和夫や海援隊の武田鉄矢なんかもそんなことをどこかに書いていた。彼らの影にはすぐに故郷に帰った人たちがごまんといるのだろう。ちなみに小父さんの兄も姉二人もまだ東京付近で暮らしている。あと血縁では甥が4人いるのか!
ハマクラさん「この小さな街の商店街で、チンドン屋さんが流していってくれる方が、どんなに嬉しいかわからない。」というエピソードが心に沁みる。一時は、ハマクラさん、涙くんさよなら(坂本九)、愛して愛して愛しちゃったのよ(田代美代子)、星のフラメンコ(西郷輝彦)、夕陽が泣いている(ザ・スパイダース)、花と小父さん(伊東きよ子)、みんな夢の中(高田恭子)、空に太陽がある限り(にしきのあきら)、恍惚のブルース(青江三奈)などなど、どれもこれも爆発的に売れたね。その始まりに「僕は泣いちっち」があったのか!凄い人は純な心の持ち主なんだ!
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植木鉢をぶら下げたスカート(笑)もあったよ〜!ファッションショウーって文化を引っ張って行くのかな〜???
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