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衣笠祥雄さん 死去 元広島の「鉄人」 / NHK NEWSWEB

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1987年6月、国民栄誉賞表彰式で、中曽根首相と一緒にカメラマンの注文に応じる衣笠祥雄選手(中央)。左は正子夫人=首相官邸~サンスポから
 
 衣笠祥雄さんくらい敵味方に関係なく愛されて野球人生を送った人は少ないのじゃーないだろうか!現役時代はそんなにゲームを観たわけじゃーないけど、野球解説に彼が出ていると楽しかったな~。

 今知ったが、衣笠祥雄さんの父親はアフリカ系アメリカ人(在日米軍人であった)で母親は日本人だそう。いじめにも相当遭ったんじゃーないだろうか。そのような青春期を乗り越えて、あのような笑顔と優しさが生まれたのかな?「鉄人」なのは、決して体だけじゃなかったのだろう!

 wikiにこんな話も載っていた。「1970年、関根潤三が打撃コーチとして広島に入団。根本陸夫監督は「衣笠をリーグを代表する打者にしてくれ」と頼み、それを受けて関根は、衣笠にマンツー・マンの過酷な練習を課し、朝・昼・夜の練習が終わり、他の選手が休んだり遊びに行ったりする時間に入っても、更に宿舎の屋上でバットを振らせていた。あまりにも厳しい練習に耐えかね、ある晩衣笠は、関根を無視して飲みに出かけた。そして夜中の3時過ぎ、もうそろそろいいだろうと宿舎に帰ってくると、なんと玄関で関根が待ち構えていた。関根は怒りもせずに『さあやるぞ』とバットを手渡し、観念した衣笠は、泣きながら朝まで素振りを続けた」んだって。なるほどね~。

 小父さんよりちょうど5ヶ月上の71歳。19日までテレビの野球解説をやっていたと言うんだから、本人にとってこれほど素敵な生き方が出来たことは本望だったと思う。衣笠祥雄さん、さようなら。 



衣笠祥雄さん 死去 元広島の「鉄人」

NHK NEWSWEB 4月24日 18時14分
プロ野球 広島で、当時、大リーグを超える連続試合出場の記録を作り、「鉄人」と呼ばれて国民栄誉賞も受賞した衣笠祥雄さんが23日夜、東京都内で大腸がんのため亡くなりました。71歳でした。

衣笠さんは京都府出身、昭和40年に平安高校から広島に入団しました。

体全体を使ったフルスイングが持ち味で、昭和50年には、山本浩二さんとともに中軸を打って活躍して「赤ヘル旋風」を起こし、球団創設26年目での悲願の初優勝に貢献しました。
その後も主力として5回のリーグ優勝と3回の日本一に導き、広島の黄金時代を支えました。

さらに、歴代3位となる161個のデッドボールを受けながらも試合に出続け、昭和54年には左肩を骨折した状態でも休まず出場し、「鉄人」と呼ばれました。

プロ6年目の昭和45年の秋から現役最後のシーズンとなった昭和62年まで連続試合出場を続け、現役最後の年には当時大リーグ記録だったルー・ゲーリッグ(37歳没)の2130試合連続出場を抜き、プロ野球では王貞治さん以来の2人目の国民栄誉賞を受賞しました。

連続試合出場は2215まで伸ばして引退し、その後、平成10年に大リーグのオリオールズでプレーしたカル・リプケンさんに抜かれましたが、今でもプロ野球記録です。

通算成績は2677試合に出場して、2543安打、ホームラン504本、1448打点をあげていて、打点王と盗塁王に1回輝き、昭和59年には最優秀選手に選ばれました。
背番号「3」は広島の永久欠番になっています。

引退後は野球評論家を務め、明るく気さくな解説で野球ファンに親しまれ、平成8年には野球殿堂入りしていました。

衣笠さんは今月19日にテレビの中継の解説も行っていましたが23日夜、東京都内で大腸がんのため亡くなりました。71歳でした。

 
世界新記録の2131試合連続出場を果たし、花輪を手にファンの祝福に応える広島・衣笠祥雄内野手=広島市民球場(1987年06月13日)

「鉄人」17年間休まなかった男

「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄さんは京都府出身で、昭和40年(1965年)広島に入団しました。

体全体を使ったフルスイングが持ち味で、4年目にファーストでレギュラーの座をつかみ、昭和50年(1975年)には山本浩二さんとともに中軸を打って活躍し、球団創設26年目での悲願のリーグ初優勝に貢献しました。

当時、広島の躍進ぶりはチームカラーにちなんで「赤ヘル旋風」と呼ばれ話題になりました。

また、当時の近鉄と対戦した昭和54年の日本シリーズ第7戦、いわゆる「江夏の21球」として知られる場面では、衣笠さんの人柄がしのばれるエピソードがあります。

9回、ノーアウト満塁の大ピンチでリリーフの準備を始めたベンチにいらだつ江夏豊さんの様子に気づいた衣笠さんはファーストからマウンドに駆け寄り、  「バッターだけをみて勝負しろ」と励ましました。

江夏さんは「同じ気持ちのやつがいてくれてうれしかった。気持ちが楽になった」とこのピンチを抑え、球団初の日本一に輝きました。

衣笠さんは歴代3位となる161個のデッドボールを受けながらも試合に出続けたほか、昭和54年(1979年)には左肩を骨折した状態でもプレーを続けるなど体の強さとガッツから「鉄人」と呼ばれました。

プロ入り6年目の昭和45年(1970年)の途中から現役最後のシーズンとなった昭和62年(1987年)まで連続試合出場を続け、シーズンの全試合出場は17年間におよびました。

現役最後の年には当時、大リーグ記録だったルー・ゲーリッグさんの2130試合連続出場を抜き、直後にプロ野球では王貞治さん以来2人目となる国民栄誉賞を受賞しました。

連続試合出場は2215まで伸ばし、現在もプロ野球記録となっています。

また通算成績は出場試合が歴代5位の2677試合、ヒットが歴代5位に並ぶ2543本、ホームランが歴代7位に並ぶ504本で、打点王と盗塁王にそれぞれ1回輝き、4回目のリーグ優勝だった昭和59年には最優秀選手に選ばれました。

衣笠さんは主力としてチームを5回のリーグ優勝と3回の日本一に導いて広島の黄金時代を支え、背番号「3」は広島の永久欠番になっています。


地元新聞社が号外

衣笠祥雄さんの死去を知らせる報道からおよそ1時間後には、広島市の中心部で地元の新聞社が号外を配りました。

号外には、かつて連続試合出場の世界記録をつくったことなど、衣笠さんの功績が写真とともに掲載され、配布が始まると、とおりかかった人たちが次々と手に取り目を通していました。

号外を受け取った男性は「よく試合を見に行っていたので記憶に残っています。個人的にもお会いしたことがありますが、とてもフランクな人でした。カープが調子がいいときなのに残念です」と話していました。


広島市民からは悲しみの声

衣笠祥雄さんが亡くなったことについて、衣笠さんがかつてプレーしたプロ野球 広島の本拠地がある広島市では、早すぎる死を悼む声が聞かれました。

このうち、広島市の男性は「非常に寂しいです。連続試合出場の記録が非常に印象に残っています。『やすらかにお眠りください』と伝えたいです」と話していました。

また、広島市の男性は「広島の1つの時代をつくった人が亡くなり寂しいです。われわれの年代では、衣笠さんが山本浩二さんと並んでヒーローでした。ハッスルプレーやフルスイングが格好よかったです。一度広島の監督をやってもらいたかったです」と話していました。

さらに、広島市の女性は「驚いてなにも言葉が出ないです。人間的に誰にでも好かれる方と聞いていました。活躍し、皆さんに元気を与えてくれました。ご冥福をお祈りします」と話していました。


渋谷でも「鉄人」を悼む声

衣笠さんが亡くなったことについて、東京のJR渋谷駅前では、プロ野球のファンなどから「鉄人」の死を悼む声が相次ぎました。

プロ野球ファンの56歳の男性は、衣笠さんが亡くなったことについて「本当ですか」と驚いた様子を見せ、「どんなにケガをしても試合に出場し続けた姿勢と功績は、どのチームのファンであろうとも語り継いでいかなければならないと思います」と話していました。

巨人ファンだという47歳の男性は、現役時代の衣笠さんについて「敵のチームでも尊敬せざるをえない偉大な選手でした」とたたえたうえで、「これからも野球界の発展に貢献されると思っていました。『ご冥福をお祈りします』という言葉しかありません」と話していました。

また、高校球児だったという24歳の男性は「現役時代のプレーを実際に見たことはありませんが、父親から活躍ぶりを聞かされていました。亡くなってとても残念です」と話していました。



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