久しぶりに、ネットでサンデー毎日を読ませてもらった。そもそも成蹊大学ってどんなところなのかも知らないし、全体に流れる時代背景が小父さんの青春時代と少しだけ重なるので興味も湧いた。
このコラムの結びはあえて書かないでおこう!(笑)。でも安倍晋三氏が通って来た道が書かれているのでけっこう面白いのじゃーないだろうか!
政治 “極私的” 成蹊大の後輩「安倍晋三」論=コラムニスト、作家・亀和田武
サンデー毎日 2017年8月1日(毎日新聞ネット)
安倍晋三という首相が特異な存在であるのは間違いない。その理由として、2度の首相就任、長い在任期間がまず挙げられるが、これほど瞬く間に支持を失った首相もまたいなかった。特異な首相は今後どうすべきなのか? 成蹊大学の先輩・ 亀和田武氏が論じる。
たび重なる疑惑と暴言によって、安倍晋三その人と内閣が窮地においつめられている。いや、窮地どころか、絶体絶命の崖っぷちに立たされているといったほうが、より正確だろう。
人の心は移ろいやすい。つい数カ月前までは、高支持率に支えられ、安倍内閣を語るとき、メディアは必ず“1強”の文字を付けることを忘れなかった。
それが加計(かけ)学園スキャンダルによって、支持率は急落し30%を割った。さらに隠蔽(いんぺい)が発覚し、官房長官の木で鼻をくくる対マスコミ答弁が続けば、森内閣と同じ10%台への転落もある。
第1次安倍内閣は2006年9月に発足した。この直後に、小説家の 小池真理子さんと、たまたまお会いした。私と小池さんは、ともに成蹊大学の文学部を卒業している。私が1969年の入学で、小池さんは71年だ。在学中は顔を合わせたことはない。
小池さんとの仕事を終えて、編集者も交えた食事となった。学校の話になり、「それにしても最近の直木賞って、成蹊の勢いが凄(すご)いよね」と私が口を開いた。小池さんが95年に『恋』で受賞したのを契機に、99年に 桐野夏生が『柔らかな頬』で、さらに2003年には 石田衣良が『4TEEN フォーティーン』で受賞と続く(さらに08年に井上荒野『切羽へ』も受賞)。
直木賞といえば、圧倒的に早稲田が強い。しかしこの時期の早大からは有力新人が現れず、文学賞とは無縁な吉祥寺の大学がブイブイいわせている。何か理由があるのかな?
「そうよね、成蹊って、いまキテるのかもね。総理大臣まで出しちゃったし」と小池さん。安倍晋三が同窓とは以前から知っていた。しかし総理大臣まで誕生しちゃうとはね。そんな文脈で会話したのは初めてだ。
安倍晋三の親しい友人にホイチョイ・プロダクションズ代表の 馬場康夫がいる。
映画「私をスキーに連れてって」の監督でもある馬場は、成蹊学園の小学校入学から大学卒業まで安倍と一緒の同窓生だ。ただ同じクラスになったことはないという。
安倍と私は6歳違いだ。私は出来の悪い高校生だったから、2年浪人して、さらに1年留年した。本来なら年齢差で重ならないはずが、私が大学5年のときにシンゾー君は法学部に入学し、同じキャンパスで擦れ違ったかもしれない。
馬場がずいぶん以前に書いた短文を覚えている。69年の成蹊学園を回顧した文章だ。成蹊といえばブルジョワの子弟が通う大学というイメージがあり、学生運動とも無縁な学園だった。
しかし67年、「10・8羽田闘争」で一気に爆発した学生反乱は、美しい欅(けやき)並木の奥にあるキャンパスにまで波及した。早大から優秀なオルグが派遣され、30名前後の学生が青ヘルの 社青同解放派の活動家になった。
とはいえ、所詮は日共・民青さえいないヌルイ学園である。街頭デモには駆り出されても、学内で何か事を起こすことはない。
69年4月の入学式の日、そんな平和な風景が一変した。学内に足を一歩踏み入れたときは、目の前に広がる東海岸のアイビー・リーグを連想させる緑の芝生を見て、俺の来る学校じゃなかったと選択を悔いた。
新入生を勧誘する賑(にぎ)やかな声に交じり、かすかに不穏な気配が伝わってきた。芝生の一隅で数名の教職員と10名の学生たちが言い争っている。おっやってるねえ。入学金の値上げ反対を迫る活動家を何十人もの体育会系と思(おぼ)しき学生が取り囲み、威嚇している。
私ときたら、1浪の秋からデモ通い、2浪の代々木ゼミ時代は“そば代値上げ阻止”という予備校史上でも前代未聞の“闘争”をしている。学生運動をするための大学入学ですから。
体育会に取り囲まれた活動家たちが劣勢だ。私は急いで小競り合いの場に割って入る。慣れたもんだからね、このくらいは。どうやら新入生らしい奴(やつ)が間に入ってきたから、体育会の連中も、一瞬、蹴ったり小突いたりという手荒な行動を控えた。すると遠巻きにしていた、おそらく私と同じ1年生が10人、20人と活動家を守る位置についた。
教職員が逃げ去り、学生たちがアジ演説をした直後に学内デモが始まった。最初は数十名、それがあっという間に200人を超えた。そのまま勢いにまかせて本館の隅にある経理部に突入した。職員や学生部長と口論しても折り合うはずもなく、私たちが部屋を占拠し、あれよあれよという間にバリケードができた。
“政治の季節”のころの成蹊学園
ちょっと自分を美化しているかもしれないが、こうして入学初日に成蹊大学全共闘が誕生した。この日から秋の機動隊導入まで、文学部校舎や総長室などでも一進一退のバリケード封鎖が繰り広げられた。
馬場康夫は苦々しい思いで、この蛮行を見ていたようだ。小学生のときから馴染(なじ)んだ学園が、外の高校から入った連中が大半を占める暴力学生によって、メチャクチャにされている。
中学生の馬場は、朝早くに学校へ着くと、全共闘たちの作った汚らしい立て看を何度も叩(たた)き壊したものだと、自慢気に記す。バリケードに泊まりこんでる連中は起きるのが遅いし、まさか中学生がやったとは、考えもしなかっただろうとも。アイツら馬鹿(ばか)だから、体育会の大学生の仕業と思ったはずと、またも得意気だ。
ここで注釈をひとつ。先ほどから私が使用している“体育会系”という言葉に違和を覚えている若い読者もいるのではないか。60年代の後半は、大半の私立大学において、体育会系のクラブは大学当局の意に沿って、学生運動を弾圧する尖兵(せんぺい)の役を担った。
日大をはじめ、多くの大学で“右翼・体育会”と彼らは呼ばれた。そんなイメージが激変したのは、70年代も後半だ。「彼氏にするなら、爽やかな体育会系の男子かなァ」と答える女子大生の言葉を初めて聞いたときは、耳を疑った。たぶん汗臭くないスポーツ男子が歌に登場する ユーミンの影響が大だと思う。以上、亀ちゃんの一口講座です。
話を馬場康夫に戻す。森友学園騒動のさなか、 昭恵夫人が「私をスキーに連れてかなくても行くわよ」というイベントに参加していたと報じられ、なんとお気楽なと世間のヒンシュクを買った。
3年前から始まったイベントは、もちろん馬場の主宰するもので、昭恵夫人はここでも名誉会長だ。臆測でしかないが、馬場に「ねえ、安倍。頼むよ」と依頼されて、断れなかった案件に違いない。この一件があるから、私には加計孝太郎と馬場康夫のイメージはぴたり重なる。
ノンフィクション作家の 青木理(おさむ)氏が今年1月『安倍三代』という労作を上梓(じょうし)した。母方の祖父である岸信介のみ語られることの多い安倍だが、父方の祖父、安倍寛は翼賛選挙を批判して当選した、数少ない反権力的な気骨のある政治家だった。そして寛の息子である晋太郎は父への尊敬の念を忘れなかった。
寛という反骨精神あふれる政治家に着目し、「安倍三代」の流れを追って、現政権と宰相の独善と横暴を浮き彫りにする着想と取材力を評価したい。
しかし青木氏の手法と表現に違和感を覚えるくだりがあった。安倍晋三その人を描く最終章だ。幼少期の晋三を、父・晋太郎の秘書はこう語る。「晋三さんは本当にね、いい子でしたよ」
首相も通った全共闘のたまり場
さらに16年間にわたる成蹊学園での彼を知る同級生や先輩、後輩、教師たちが語る晋三の姿は「判で押したように同じものばかりだった」と記す。
「勉強がすごくできたっていう印象はないけれど、すごくできなかったっていう印象もない。スポーツでも際立った印象がほとんどなくて、決して活躍するタイプではなかった」と語る小学校から高校までの同級生。
「ひとことで言って、(晋三は)強い印象の人じゃありませんでした。勉強が突出してできたわけではなく、でも決して落ちこぼれでもない。(中略)勉強もスポーツもほどほどで、“ごく普通”の“いいヤツ”です」という同級生もいた。
強烈な印象を残すエピソードは、ほぼ皆無だ。確かにノンフィクション作家泣かせの人物だ。青木理氏はそんな晋三を“凡庸”と形容した。「どこまでも凡庸」「悲しいまでに凡庸」といった言葉が頻出する。
そんな凡庸な男が、なぜ4年半に及ぶ第2次内閣において、かくも強権的に振る舞い、ゴーマンの限りを尽くして、官房長官ともども、メディアと国民に対して、非情で冷酷な対応しかしなかったのか。
私は5年前に、ある雑誌に載った安倍の言葉を読んで――大袈裟(おおげさ)にいえば――驚愕(きょうがく)した体験がある。雑誌『東京人』の増刊〈成蹊学園と吉祥寺の一〇〇年〉と題された号だ。安倍が首相に返り咲く半年前だ。
総理ではなく“政治家”の肩書で、安倍は先述の馬場康夫と対談している。題して“懐かしの吉祥寺、再訪”。まず2人が訪れるのは、学校近くにあった、そば「尾張屋」だ。安倍は中学・高校時代は地理研究会に属していた。いいねえ。元祖ブラタモリじゃないか。
そして大学時代はアーチェリー部に入る。なんでまた、地理研から洋弓へ。「実は、ここが体育会系の本部だったんじゃない?」と馬場が冗談っぽく喋(しゃべ)る。そう、「尾張屋」は体育会系の客が多い店だった。私は入学直後に一、二度、行っただけだ。
2人は高校生になると、駅前の喫茶店によく行った。中国料理屋とか洋食屋にも、と馬場。すると安倍が「もうなくなってしまったけどね、『パラドス』というレストランにもよく行きましたよ」と語っていて衝撃を受けた。
「パラドス」。店の情景がくっきり形をとる。大学1年から5年間、通いつめた店だ。レストランという言葉は似合わない、小さくて地味な食堂だった。一日も欠かさず通った週もある。少ないときでも、週2ペースだったかな。
オムライスと生姜焼(しょうがや)き定食が、とてもおいしい店だった。しかしそれ以上に、店を切り盛りする中年のご夫婦の立ち居振る舞いが素敵(すてき)だった。優しく、あれこれ気配りの利く奥さん。ご主人は無口で手だけを動かすタイプの人だったが、たまに目が合うと、かすかに笑みを浮かべる。
そしてこの店こそ、全共闘の“本部”だった。体育会の連中は、まず一人もいない。私たちバリケードに立て籠もっている活動家たちと、それを支持するシンパの学生。それとおとなしそうに文庫本を読んでいる女の子や、打ち合わせを兼ねて昼飯を食べる文化系サークルの連中とかね。
「パラドス」が好きだった君へ
バリケードがあったときも「パラドス」に通った。校舎を追われて緊急会議を開いた後も「パラドス」でオムライスを食べた。バリケードや自治会室を失って行き場のなくなった私たちに「パラドス」のご夫婦は優しかった。何日に1回かの割合で単品のサービスまで付けてくれた。
あの「パラドス」に、安倍晋三は“よく行きましたよ”と語っている。仰天した。目が点になった。そして芥川龍之介の短篇『蜘蛛(くも)の糸』を連想していた。
カン陀多(カンダタ)という、人を殺したり、放火したり、悪事の限りを尽くした大泥坊が、地獄の池でのたうちまわっている。その様子を御釈迦様が御覧になった。極悪人のカン陀多だが、たった一度だけ善い事をしている。路ばたを這(は)う蜘蛛を見て、最初は踏み殺そうとしたが、いや、いやそれはいくら何でも可哀そうだと思い返して助けたのだ。
その事を思いだした御釈迦様は、ずっと下にある地獄の底に、極楽の蜘蛛がかけた美しい銀色の糸を降ろした。大悪党だが、善い事もしている。たった一回だけどね。でも地獄を脱出するチャンスを与えようとしたんだ、御釈迦様は。
戦後レジームからの脱却という、なんとも観念的で空疎なスローガンを叫び、次々と悪法を強引に通してしまった安倍。プーチンやトランプなど、強権を振るう権力者には媚(こ)び、沖縄は見捨てる非情な宰相。
そんな極悪人だが、あの「パラドス」に流れる優しい、しかし権威を嫌う空気を心地よく感じていた時期があったんだよ。あの地味だけど清潔な食堂に馴染んでいた晋三くんには、善い心が宿っていたはずだ。
青木氏の著書のラストには、かつて安倍晋三を教えたこともあるというリベラル左翼の知識人が紹介されている。68年に成蹊大学の教授になった後は、法学部長を経て、学長にまで昇りつめた 宇野重昭だ。青木氏の取材に対し、中国政治史の第一人者といわれる老碩学(せきがく)は、安保関連法制を「間違っている、と思います」と批判する。
〈「正直言いますと、忠告したい気持ちもあったんです。(略)よっぽど、手紙を書こうかと思ったんですが……」。そう言った瞬間、宇野の目にはっきりと涙がうかんでいるのに気づき、私はうろたえた。〉
69年の秋、私たちのバリケードを撤去する際、法学部の教授会は全会一致で、機動隊の導入を決めたはずだ。大学教授なんて、所詮はそんなもの。学園でも学界でも頂点に立った男にこれ以上、何か讃美の言葉でも送るべきだろうか。
それならば、いまは非道な悪徳政治家になった男に地獄から脱出する一度だけの機会を与えたいと思う。晋三くん、君が救われる道はひとつ、いますぐ辞任して政界から去ること、それだけだよ。
73年に「パラドス」を好きだった君なら、地位に恋々とすることなく、そんな深い決断ができるかもしれないのだが。
(文中一部敬称略)
かめわだ・たけし
1949年、栃木県出身。桐朋高等学校(東京都国立市)を経て、成蹊大文学部に入学。雑誌編集者を経てフリーに。SF、サブカルチャーに詳しく、テレビドラマ通でもある。著書は『夢でまた逢えたら』(光文社)、『60年代ポップ少年』(小学館)など多数
(サンデー毎日8月13日号から)
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