六・三制誕生の風景「青空教室」
火論:空きプールの教室=玉木研二
毎日新聞 2014年02月04日 東京朝刊
<ka−ron>
今政府の教育再生実行会議が「学制の見直し」の論議に入ったことに、世間の関心は総じて薄いらしい。
近代学校制度である学制は日本では明治以降のもの。小学校から枝分かれし、中学、高校、大学と進める者は限られ「複線型」といわれる。
しかし、敗戦後はアメリカ教育使節団の勧告に沿い、学制はほぼ現行のものになった。形の上では小、中、高校、大学へと進む機会が1本に連なり「単線型」とされる。
根幹の6・3・3(小、中、高)制はアメリカの押しつけという見方があるが、現実は日本の教育界が望むところだった。義務教育(かつては6年)の拡充と機会均等は戦前から論じられていた。
だが敗戦後2年にも満たず日本が疲弊していた1947年春の実施は過酷だった。
新制中の校舎、教室をどうする。教員は。教科書は。文部省(当時)の幹部が説明に立った国会で声を上げて泣いたのはこの早春だ。
学校設置者の困窮市町村は強制的な寄付に頼るなど、地域は混乱した。辞職首長が相次ぎ、自殺した村長も出た。それでも、制度が定着したのは、大人たちの、子に教育をという熱意による。
施設不足の小、中学校は2交代、3交代の授業や野外の「青空教室」でしのいだ。
学力の平均化、均質化、進学熱の向上。戦後学制がもたらしたこれらのプラスマイナスを洗い直し、制度を改めようという論議は半世紀近く断続的に続いているが、部分的にしか実現していない。
だから今ある制度の運用改善こそ問題解決の近道ではと、筆者は思う。だが、心身成長期が変化したという現在の6・3・3の区切りを4・4・4にしたらどうかとか、義務教育開始早期化などの仕組み変更論も活発である。
論議大いに結構。広く公に開いて、慌てず、そして快活たることが肝心だ。
戦後間もないころの、さまざまな「青空教室」の写真が毎日新聞社に残っている。
その一枚に、水を抜いたプールを教室にし、空き箱に腰掛けた子供たちが授業を受けている光景がある。服装は貧しい。備品もない。黒板代わりらしい壁の上に、競泳コース標識の「2」が見える。
プールの底から見上げる空に何がある。そう尋ねたくなるほどの明るさを感じ取るのは、物質的な貧しさを越えて新時代の息吹のようなものが伝わってくるからか。
今、新学制の論議が青々とした空の広がりを持ち、新時代を開く気概で進められるよう望む。(専門編集委員)
アメリカのreeさんのブログを読んでいたらよくアメリカの学校制度はどのようになっているんだろ?なんて思っていたが、最近少しは慣れてきた(笑)。日本の6・3・3(小、中、高)制も決して不変のものじゃーないんだね。今、検索していたら
日本の第二次世界大戦前の学校教育制度では、6年制の尋常小学校を卒業した後、進学を前提にするなら5年制の旧制中等教育学校(男子の中学校、実業学校、女子の高等女学校がある)、就職ないし家事手伝いを前提にするなら2年制の高等小学校に進学した。これは、1941年に国民学校に再編され、6年間の初等科、2年間の高等科とされた。(ウィキペディア)
とある。尋常小学校などの名称は繰り返し聞いていたが、こんな仕組みになっていたとは初めて活字で読んだ。だって小父さんが生まれた1947年から変っていないのだからむしろずっとこのままかとも思ってきた。
「教育改革」という政治家の言葉も耳にタコができるほど聞かされてきたが、6・3・3(小、中、高)制の議論は政治家の口からは全く聞かないね。これが時代に合っているのか、合っていないのかは分からないけど、広く国民が理解できるところで話もすすめて欲しいね。
火論:空きプールの教室=玉木研二
毎日新聞 2014年02月04日 東京朝刊
<ka−ron>
今政府の教育再生実行会議が「学制の見直し」の論議に入ったことに、世間の関心は総じて薄いらしい。
近代学校制度である学制は日本では明治以降のもの。小学校から枝分かれし、中学、高校、大学と進める者は限られ「複線型」といわれる。
しかし、敗戦後はアメリカ教育使節団の勧告に沿い、学制はほぼ現行のものになった。形の上では小、中、高校、大学へと進む機会が1本に連なり「単線型」とされる。
根幹の6・3・3(小、中、高)制はアメリカの押しつけという見方があるが、現実は日本の教育界が望むところだった。義務教育(かつては6年)の拡充と機会均等は戦前から論じられていた。
だが敗戦後2年にも満たず日本が疲弊していた1947年春の実施は過酷だった。
新制中の校舎、教室をどうする。教員は。教科書は。文部省(当時)の幹部が説明に立った国会で声を上げて泣いたのはこの早春だ。
学校設置者の困窮市町村は強制的な寄付に頼るなど、地域は混乱した。辞職首長が相次ぎ、自殺した村長も出た。それでも、制度が定着したのは、大人たちの、子に教育をという熱意による。
施設不足の小、中学校は2交代、3交代の授業や野外の「青空教室」でしのいだ。
学力の平均化、均質化、進学熱の向上。戦後学制がもたらしたこれらのプラスマイナスを洗い直し、制度を改めようという論議は半世紀近く断続的に続いているが、部分的にしか実現していない。
だから今ある制度の運用改善こそ問題解決の近道ではと、筆者は思う。だが、心身成長期が変化したという現在の6・3・3の区切りを4・4・4にしたらどうかとか、義務教育開始早期化などの仕組み変更論も活発である。
論議大いに結構。広く公に開いて、慌てず、そして快活たることが肝心だ。
戦後間もないころの、さまざまな「青空教室」の写真が毎日新聞社に残っている。
その一枚に、水を抜いたプールを教室にし、空き箱に腰掛けた子供たちが授業を受けている光景がある。服装は貧しい。備品もない。黒板代わりらしい壁の上に、競泳コース標識の「2」が見える。
プールの底から見上げる空に何がある。そう尋ねたくなるほどの明るさを感じ取るのは、物質的な貧しさを越えて新時代の息吹のようなものが伝わってくるからか。
今、新学制の論議が青々とした空の広がりを持ち、新時代を開く気概で進められるよう望む。(専門編集委員)
アメリカのreeさんのブログを読んでいたらよくアメリカの学校制度はどのようになっているんだろ?なんて思っていたが、最近少しは慣れてきた(笑)。日本の6・3・3(小、中、高)制も決して不変のものじゃーないんだね。今、検索していたら
日本の第二次世界大戦前の学校教育制度では、6年制の尋常小学校を卒業した後、進学を前提にするなら5年制の旧制中等教育学校(男子の中学校、実業学校、女子の高等女学校がある)、就職ないし家事手伝いを前提にするなら2年制の高等小学校に進学した。これは、1941年に国民学校に再編され、6年間の初等科、2年間の高等科とされた。(ウィキペディア)
とある。尋常小学校などの名称は繰り返し聞いていたが、こんな仕組みになっていたとは初めて活字で読んだ。だって小父さんが生まれた1947年から変っていないのだからむしろずっとこのままかとも思ってきた。
「教育改革」という政治家の言葉も耳にタコができるほど聞かされてきたが、6・3・3(小、中、高)制の議論は政治家の口からは全く聞かないね。これが時代に合っているのか、合っていないのかは分からないけど、広く国民が理解できるところで話もすすめて欲しいね。