福岡の実家での集合写真からのトリミング、小父さんが小学1年くらいで兄貴は25歳だろう。
先ずは、5日間ブログを開けていたのも関わらずたくさんの方に訪問いただき恐縮しております。有難うございました。
小父さんの長兄(85歳)が15日に死去して、昨日やっと告別式も終わった。1日に3000人以上が亡くなる首都圏の公営火葬場は受け入れ限界で火葬して葬式をあげるのに1週間以上、なかには10日間も待たされることを知り驚いた。団塊の世代がばたばた死去するこ頃はいったいどうなるんだろう。
小父さんは末っ子だが、上に姉3人と兄2人が居た。次兄も15年前になくなっている。長兄は天才的で次兄は努力型の秀才だった。軍人であった厳しい親父の次兄へのお説教の長いこと長いこと離れた部屋にいてもとても怖かった。ところが記憶にはないのだが、親父の長兄に対するそれはまだ厳しかったらしいことをつい最近知った。長女も残業して遅く帰ってくると(遊びと判断してか)いきなり平手打ちにあったらしい。そして小父さんは勉強嫌いで一番出来が悪かったが、父は甘かった。
小学4〜5年位の時、庭のニッキの木に登って兄貴に「凄い凄い!」なんて言われて得意げになって写真を撮ってもらったもの。
長兄は陸軍幼年学校で終戦を迎え、外国語専門学校、九大からフルブライド留学生でアメリカに渡った経験を持つ。「何の勉強をしていたのか」と最近聞くと勉強なんか何もしないでアメリカ国からお小遣いもらって国内を観て回っていたとのこと。何でも当番で寮生の50人分の食事も作っていたとか。この頃アメリカの子供用グローブを買って送ってもらったが、小父さんの持っていたグローブはそれまでのビニールとそれだけだ。
兄貴は学生時代は学校には全然行かずに米軍板付基地で働いて9人家族の我が家の家計を助けていた。大変な貧乏だった我が家では、次兄は中学時代英語の教科書を買うお金なかったようだが、友達から借りてきた、教科書を長兄が一晩でタイプライターで打ってくれた時はとても嬉しかったとよく話していたし、上二人の姉は県立高校の学費を助けてもらったりしたらしい。兄貴が、米兵士に殴られて帰宅した時のことを祖母が「とても悔しかった」と話していたことも思い出す。
正月をひとり東京の兄貴の家で過ごし、借り着で兄貴と。宮中参賀や明治神宮にもお参りした。
長兄は、留学を終えて日航に途中入社で入り、いきなり「国際をやれ」と言われて何のことかさっぱりわからないままアメリカへ渡ったらしいが当時は国際線がまだ飛んでなかった。日本に戻っても趣味は仕事というくらい仕事ばかりしていたようだ。51歳の時、国際航空運送協会(IATA)のアジア南太平洋地区代表に就任してシンガポールに16年位勤務していた。シンガポールでもロンドンとのやりとりやニューヨークの事務所が開く夜の10時以降まで間食もとらないで仕事していたと言っていた。
アジアはもちろん全域が担当で中国の空を飛ぶ交渉や北朝鮮にも何回か行ったようだが、面白いのはモンゴル航空は国営だか墜落ほかを補てんする航空機保険に加入してなかったんだそうな。それで「入っていた方がいいですよ」と勧めたりもしたとか。主に、各国から予算を引き出すことをたくさんやっていたらしい。
シエラトン地下のインド料理店で。鶏を兄貴がナイフとフォークで身を取り出してくれてとても美味しかった。
兄は、子供がいない上に、17年前に義姉を亡くして独り暮らしでよく頑張ったと思う。ちょっと真似出来そうにないな。もう身銭きってでインド料理店には行くこともないだろう(笑)。でも今は寂しさも悲しさも感じない。きっと自分では、兄が天国へ旅立っってしまったとまだ思ってないのだろう。
先ずは、5日間ブログを開けていたのも関わらずたくさんの方に訪問いただき恐縮しております。有難うございました。
小父さんの長兄(85歳)が15日に死去して、昨日やっと告別式も終わった。1日に3000人以上が亡くなる首都圏の公営火葬場は受け入れ限界で火葬して葬式をあげるのに1週間以上、なかには10日間も待たされることを知り驚いた。団塊の世代がばたばた死去するこ頃はいったいどうなるんだろう。
小父さんは末っ子だが、上に姉3人と兄2人が居た。次兄も15年前になくなっている。長兄は天才的で次兄は努力型の秀才だった。軍人であった厳しい親父の次兄へのお説教の長いこと長いこと離れた部屋にいてもとても怖かった。ところが記憶にはないのだが、親父の長兄に対するそれはまだ厳しかったらしいことをつい最近知った。長女も残業して遅く帰ってくると(遊びと判断してか)いきなり平手打ちにあったらしい。そして小父さんは勉強嫌いで一番出来が悪かったが、父は甘かった。
小学4〜5年位の時、庭のニッキの木に登って兄貴に「凄い凄い!」なんて言われて得意げになって写真を撮ってもらったもの。
長兄は陸軍幼年学校で終戦を迎え、外国語専門学校、九大からフルブライド留学生でアメリカに渡った経験を持つ。「何の勉強をしていたのか」と最近聞くと勉強なんか何もしないでアメリカ国からお小遣いもらって国内を観て回っていたとのこと。何でも当番で寮生の50人分の食事も作っていたとか。この頃アメリカの子供用グローブを買って送ってもらったが、小父さんの持っていたグローブはそれまでのビニールとそれだけだ。
兄貴は学生時代は学校には全然行かずに米軍板付基地で働いて9人家族の我が家の家計を助けていた。大変な貧乏だった我が家では、次兄は中学時代英語の教科書を買うお金なかったようだが、友達から借りてきた、教科書を長兄が一晩でタイプライターで打ってくれた時はとても嬉しかったとよく話していたし、上二人の姉は県立高校の学費を助けてもらったりしたらしい。兄貴が、米兵士に殴られて帰宅した時のことを祖母が「とても悔しかった」と話していたことも思い出す。
正月をひとり東京の兄貴の家で過ごし、借り着で兄貴と。宮中参賀や明治神宮にもお参りした。
長兄は、留学を終えて日航に途中入社で入り、いきなり「国際をやれ」と言われて何のことかさっぱりわからないままアメリカへ渡ったらしいが当時は国際線がまだ飛んでなかった。日本に戻っても趣味は仕事というくらい仕事ばかりしていたようだ。51歳の時、国際航空運送協会(IATA)のアジア南太平洋地区代表に就任してシンガポールに16年位勤務していた。シンガポールでもロンドンとのやりとりやニューヨークの事務所が開く夜の10時以降まで間食もとらないで仕事していたと言っていた。
アジアはもちろん全域が担当で中国の空を飛ぶ交渉や北朝鮮にも何回か行ったようだが、面白いのはモンゴル航空は国営だか墜落ほかを補てんする航空機保険に加入してなかったんだそうな。それで「入っていた方がいいですよ」と勧めたりもしたとか。主に、各国から予算を引き出すことをたくさんやっていたらしい。
シエラトン地下のインド料理店で。鶏を兄貴がナイフとフォークで身を取り出してくれてとても美味しかった。
兄は、子供がいない上に、17年前に義姉を亡くして独り暮らしでよく頑張ったと思う。ちょっと真似出来そうにないな。もう身銭きってでインド料理店には行くこともないだろう(笑)。でも今は寂しさも悲しさも感じない。きっと自分では、兄が天国へ旅立っってしまったとまだ思ってないのだろう。