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火論:三島由紀夫の涙=玉木研二 「何という静かな、おそろしいサスペンス劇だろう」毎日jp

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ロンドンオリンピック銀メダリストの三宅宏実  

  

火論:三島由紀夫の涙=玉木研二

毎日新聞 2013年09月10日 東京朝刊

 <ka−ron>

 「何という静かな、おそろしいサスペンス劇だろう」

 三島由紀夫は重量挙げをこう表現した。

 1964年の東京オリンピックで新聞や雑誌は、名だたる作家らに競って観戦記やエッセーを注文した。

 40人の計91作品が「東京オリンピック 文学者の見た世紀の祭典」(64年、講談社)に収められている。

 称賛にせよ、皮肉や風刺にせよ、そこにおおむね共通しているのは、初めて見るオリンピックと多様な競技への新鮮な興味や驚きである。

 オリンピック的なるもの、という“未知との遭遇”だったといってもよい。

 例えば、開催にかなり批判的だった石川達三は開会式で涙を禁じ得なかった。 それは「四百人、五百人という大選手団を送った国々のあいだに伍(ご)して、たった一人の選手が、その国の旗をかざして入場してくる姿だった」。 

 オリンピックの象徴的風景である。石川は率直な感動をにじませて書いている。

 「彼はその孤独に耐えて、母国の栄誉を守ろうとしている。オリンピックの場においてのみ、彼は米国やソ連と対等であり得る」

 作家らはいずれも戦争の時代をくぐっている。あの日、国立競技場を埋めた大観衆の大半がそうだっただろう。

 杉本苑子は、43年10月にちょうどこの地であった出陣学徒壮行会の記憶を五輪開会式に重ねた。彼女は学徒を見送る大勢の女学生の一人だった。戦局は悪化していた。

 「あの雨の日、やがて自分の生涯の上に、同じ神宮競技場で、世界九十四カ国の若人の集まりを見るときが来ようとは、夢想もしなかった私たちであった」

 この思いも当時多くの人が分かち持ったに違いない。

 「私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ」

 2回目の東京大会開催が決まった。前回からこれまでの年月に、時代も、競技の考え方も、種類も、オリンピックのありさまも変わった。

 7年後、再び作家たちは競技場へ向かい、新しい発見や表現を記すのだろう。私はむしろ、飾らない率直な思いや感動の表出がいい。例えば、三島が女子バレーボール「東洋の魔女」の決勝観戦記を結んだ言葉はどうだろう。

 「私の胸にもこみ上げるものがあったが、これは生まれてはじめて、私がスポーツを見て流した涙である」




 やはりノーベル賞候補にでもなろうかという人の言葉の使い方は違うね。格調が高い!三島が感動した重量挙げにしろ、女子バレーの決勝にしろその歴史的瞬間は小父さんもテレビの前に居た。石川達三の言う一人の入場行進もあったなあ〜。というより、現代みたいに地球の裏側でも深夜でもテレビの実況放送が見られる時代ではなかったので、観るもの聞くもの初めてのばかりですべてが新鮮であったことが大きな感動を呼び起こしたのだろう。

 戦後生まれの小父さんにとっては、杉本苑子さんのような感情は分からなかったと言うか、持ち合わせていなかった。

 文学者お三方の形容に惹かれる大きな理由が一つ分かった。それは、次の東京大会でも高度なスポーツの論評が飛び交うのだろうが、小父さんはとてもスポーツ音痴なのだ。だけど、大相撲であれプロ野球であれ大きな戦いが目の前で展開される時、そこからかもし出される感動って素人でもあるんだよね。それって文学に近くないかな?(笑)。 

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