シャボン玉ホリデー(1961 - 1972)
制作は日本テレビと渡辺プロダクション(後年タレント部門をワタナベエンターテインメントに継承)。渡辺プロが目下売り出し中の双子の女性デュオ・ザ・ピーナッツを主役に据えた音楽バラエティショーとして制作された。現場の指揮は、渡辺プロダクションの制作部長・松下治夫(後の株式会社ワイズメン代表)が執った。
スポンサー探しは難航を極め、当初提供契約に難色を示していた牛乳石鹸が最終的にしぶしぶ行った経緯から同社より見返りを求められ、日本テレビが見返りとして番組名を『シャボン玉ホリデー』に変えた経緯がある。番組名がホリデーとなっているのは、牛乳石鹸社長の宮崎寅四郎による命名で、電通の堀貞一郎から牛乳石鹸への売り込みだったため、その労をねぎらい堀の名をとり堀貞(ホリテイ)からホリデーとした。なお、牛乳石鹸の一社提供だったため、番組冒頭には乳牛の鳴声「モー!」と番組テーマ曲をバックに「提供・乳牛マーク・牛乳石鹸」が書かれていた提供クレジットが入れられていた。その代償として、テーマ題の最後に「ピーナッツ!」とサブタイトルを入れることにした。ただ、視聴率が高かったため、結果的には成功ということになった。
番組はまず「牛乳石鹸提供、シャボン玉ホリデー!」のタイトルコールに次いで、乳牛の鳴き声でオチとなるコントをやり、その後ザ・ピーナッツがテーマソングをシャボン玉の舞う中で歌い、毎回一つのあるテーマに沿ってザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツ、そして毎回登場するゲストを交え、コント・歌・トークなどを展開。番組からは数多くのギャグが生まれ、特に植木等の「お呼びでない?こりゃまた失礼致しました!」は番組を代表する伝説的なフレーズとして親しまれた。
第1回からカラー放送で、生放送ではなく、カラーVTRに収録して放送を行った。収録は出演者のスケジュール上、深夜に撮影されることが多く、時には、明け方までかかることもあったという。オープニングテーマとエンディングテーマからも伺えるとおり、番組の主役はザ・ピーナッツであるが、実質的にはハナ肇とクレージーキャッツとのW主演となった。
また、例年の8月にはクレージーが大阪市北区の梅田コマ・スタジアムで特別公演を行うため、系列局である読売テレビのスタジオ(当時は東天満に存在)を使って収録したこともある。
1972年に入ると、クレージーのメンバー全員揃っての出演は無くなる(ハナ肇か谷啓が出演)。そして同年5月からの約半年間は公開番組となり、谷啓、ピーナッツ、そして井上順之(現・井上順)がメインを務め、スタジオに動物を入れるなど往時とは別内容のものとなっていた。この頃にはジャッキー吉川とブルーコメッツもレギュラーとなっていた。この時期番組は視聴率も低迷しており、ザ・ピーナッツが当時関西で人気を誇っていた『ヤングおー!おー!』(毎日放送製作)にゲスト出演した際、「こっち(ヤングおー!おー!)のほうが面白い」と本音を漏らしたというエピソードも残っている。
番組は1972年10月1日、11年4か月の歴史に幕を下ろした。通常『シャボン玉ホリデー』と言えば、こちらの第1期を指すことの方が多い。~ウイキペディア
私が中学2年から始まったのか!我が家に白黒テレビが入ったのも中学2年、父はプロレス(私も一緒に観ていたが 笑)、私は、ジェリー藤尾・渡辺友子の「パント・ポップショー」に「九ちゃん・ダニー飯田とパラダイス・キングの「7時にあいまショー」かな?そして作:永六輔、音楽:中村八大、演出:末森憲彦の「夢であいましょう」、スマイリー小原指揮の「ザ・ヒットパレード」らの音楽番組ばかり夢中で観ていたね!そうか、中3になるとテレビは少し減っただろうから中学二年がテレビ音楽漬けだったんだ(笑)
シャボン玉ホリデーの辞書のようなページを見つけたシャボン玉ホリデーの思い出
Syabondama holiday OP&ED 1965
第1期
ザ・ピーナッツ
ハナ肇とクレージーキャッツ( - 1972年)
ハナ肇
植木等
谷啓
犬塚弘
桜井センリ
安田伸
石橋エータロー
白木秀雄 - 番組内でハナ肇とドラム合戦をしたこともある。
なべおさみ
松崎真
小島正雄
前田武彦
小松政夫
青島幸男
伊東ゆかり
中尾ミエ
園まり
布施明[3]
玉川良一
藤村有弘
ダークダックス
スリーファンキーズ
ジャニーズ
ザ・タイガース
ジャッキー吉川とブルーコメッツ - 最末期にレギュラーとなる。
井上順(1972年)
制作は日本テレビと渡辺プロダクション(後年タレント部門をワタナベエンターテインメントに継承)。渡辺プロが目下売り出し中の双子の女性デュオ・ザ・ピーナッツを主役に据えた音楽バラエティショーとして制作された。現場の指揮は、渡辺プロダクションの制作部長・松下治夫(後の株式会社ワイズメン代表)が執った。
スポンサー探しは難航を極め、当初提供契約に難色を示していた牛乳石鹸が最終的にしぶしぶ行った経緯から同社より見返りを求められ、日本テレビが見返りとして番組名を『シャボン玉ホリデー』に変えた経緯がある。番組名がホリデーとなっているのは、牛乳石鹸社長の宮崎寅四郎による命名で、電通の堀貞一郎から牛乳石鹸への売り込みだったため、その労をねぎらい堀の名をとり堀貞(ホリテイ)からホリデーとした。なお、牛乳石鹸の一社提供だったため、番組冒頭には乳牛の鳴声「モー!」と番組テーマ曲をバックに「提供・乳牛マーク・牛乳石鹸」が書かれていた提供クレジットが入れられていた。その代償として、テーマ題の最後に「ピーナッツ!」とサブタイトルを入れることにした。ただ、視聴率が高かったため、結果的には成功ということになった。
番組はまず「牛乳石鹸提供、シャボン玉ホリデー!」のタイトルコールに次いで、乳牛の鳴き声でオチとなるコントをやり、その後ザ・ピーナッツがテーマソングをシャボン玉の舞う中で歌い、毎回一つのあるテーマに沿ってザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレージーキャッツ、そして毎回登場するゲストを交え、コント・歌・トークなどを展開。番組からは数多くのギャグが生まれ、特に植木等の「お呼びでない?こりゃまた失礼致しました!」は番組を代表する伝説的なフレーズとして親しまれた。
第1回からカラー放送で、生放送ではなく、カラーVTRに収録して放送を行った。収録は出演者のスケジュール上、深夜に撮影されることが多く、時には、明け方までかかることもあったという。オープニングテーマとエンディングテーマからも伺えるとおり、番組の主役はザ・ピーナッツであるが、実質的にはハナ肇とクレージーキャッツとのW主演となった。
また、例年の8月にはクレージーが大阪市北区の梅田コマ・スタジアムで特別公演を行うため、系列局である読売テレビのスタジオ(当時は東天満に存在)を使って収録したこともある。
1972年に入ると、クレージーのメンバー全員揃っての出演は無くなる(ハナ肇か谷啓が出演)。そして同年5月からの約半年間は公開番組となり、谷啓、ピーナッツ、そして井上順之(現・井上順)がメインを務め、スタジオに動物を入れるなど往時とは別内容のものとなっていた。この頃にはジャッキー吉川とブルーコメッツもレギュラーとなっていた。この時期番組は視聴率も低迷しており、ザ・ピーナッツが当時関西で人気を誇っていた『ヤングおー!おー!』(毎日放送製作)にゲスト出演した際、「こっち(ヤングおー!おー!)のほうが面白い」と本音を漏らしたというエピソードも残っている。
番組は1972年10月1日、11年4か月の歴史に幕を下ろした。通常『シャボン玉ホリデー』と言えば、こちらの第1期を指すことの方が多い。~ウイキペディア
私が中学2年から始まったのか!我が家に白黒テレビが入ったのも中学2年、父はプロレス(私も一緒に観ていたが 笑)、私は、ジェリー藤尾・渡辺友子の「パント・ポップショー」に「九ちゃん・ダニー飯田とパラダイス・キングの「7時にあいまショー」かな?そして作:永六輔、音楽:中村八大、演出:末森憲彦の「夢であいましょう」、スマイリー小原指揮の「ザ・ヒットパレード」らの音楽番組ばかり夢中で観ていたね!そうか、中3になるとテレビは少し減っただろうから中学二年がテレビ音楽漬けだったんだ(笑)
シャボン玉ホリデーの辞書のようなページを見つけたシャボン玉ホリデーの思い出
Syabondama holiday OP&ED 1965
第1期
ザ・ピーナッツ
ハナ肇とクレージーキャッツ( - 1972年)
ハナ肇
植木等
谷啓
犬塚弘
桜井センリ
安田伸
石橋エータロー
白木秀雄 - 番組内でハナ肇とドラム合戦をしたこともある。
なべおさみ
松崎真
小島正雄
前田武彦
小松政夫
青島幸男
伊東ゆかり
中尾ミエ
園まり
布施明[3]
玉川良一
藤村有弘
ダークダックス
スリーファンキーズ
ジャニーズ
ザ・タイガース
ジャッキー吉川とブルーコメッツ - 最末期にレギュラーとなる。
井上順(1972年)