Quantcast
Channel: 小父さんから
Viewing all articles
Browse latest Browse all 4329

プロ野球・中西太さん死去 伝説残し野球を愛し続けた怪童 / 毎日新聞

$
0
0
プロ野球・元西鉄の中西太さん=東京都渋谷区で2016年9月5日、長谷川直亮撮影

毎日新聞 2023/5/18 13:46

 「写真、外で撮るか?」。2016年9月にインタビューをさせてもらった時、自ら庭に出てバットを構えた。今にも「公園に野球しに行こう」と言わんばかりの笑顔。そこには「怪童」というより、83歳になってもただ野球が好きでたまらない「童(わらべ)」がいた。「昔の話はしたくない」と言いつつ、初対面の記者にも、野球の話になるとやはり止まらず、たっぷり3時間話していただいた。

 香川・高松一高時代に甲子園で豪打を披露し「怪童」と呼ばれた。早稲田大学進学を望んでいたが、激しい争奪戦の末、プロ野球の西鉄(現西武)が獲得した。



 

 1958年日本シリーズで奇跡の逆転優勝(読売ジャアンツに3連敗した後4連勝)。歓喜の中西太氏(左)と稲尾氏(右)=後楽園、10月21日 (西日本新聞)



下のYouTube「甦れ! 俺の西鉄ライオンズ」の歌の中に出てくる<ラジオの実況放送録音>           
 1979年、ライオンズが福岡から(西武の所沢に)去る直前に作られ、発表された。太平洋クラブライオンズ、クラウンライターライオンズと変わりゆくライオンズを歌い、かつての黄金時代を支えたメンバーや、実況放送が登場する。中山大三郎は「野球に関する歌……一番創りたかったのはこの歌でした」とのコメントを残す。(はてなダイアリーより) 



甦れ! 俺の西鉄ライオンズ



 強打の逸話は枚挙にいとまがない。ライナーを捕った二塁手が勢いに負けてひっくり返り、三塁手の頭のすぐ上を通り過ぎた打球がそのままスタンドインした――。西鉄の本拠地・平和台球場(福岡市)の場外に消えた伝説の「165メートル」本塁打については、本人は「ライナーだったから一生懸命走っていて見ていない」。

 球団事情によって28歳で選手兼任監督に就いた重圧と手首のけがが選手としてのピークを短くした。監督としてリーグ制覇が1回あったが、西鉄の栄光を取り戻すことはできなかった。周囲が持った印象は「弱気で優柔不断」。インタビューでも「こんな優しい男に監督はできない」と冗談めかして振り返った。

 打撃の指導者としては多くの実績を残し、近年まで多くの打者が助言を求めた。首位打者2回の若松勉さん(76)は近くから球を投げて目の前のネットに打ち返すティー打撃を徹底して外角打ちを身につけさせた。今では試合前練習などでのティー打撃は当たり前だが、始めたのは中西さんと言われる。指導方法の引き出しは数多かった。「長所を伸ばすんだよ。若松は足腰がしっかりしていたからそれを固めた。人を見て法を説く、だよ」

 中西さんにお話を聞いた前年からプロ野球界は野球賭博問題で揺れていた。中西さんは、西鉄の八百長問題「黒い霧事件」の発覚で監督を辞任し、同時に現役を引退している。言葉を求めたが「私はそういうことを言う資格がない」。この時ばかりは沈んだ表情だった。

 インタビューを申し込む電話の向こうでプロ野球中継の実況が聞こえ、お会いした日も直前まで試合の録画映像を見ていた。愛してやまないプロ野球界の将来を考え続け、「長所を生かすことが大切。ホームランバッターもだけど、足が速い、守備がうまい、そんな特徴をもった選手が育ってほしい」と願っていた中西さん。いくつになってもドキドキわくわくする野球を求める童だった。【吉見裕都】

 かって、福岡には田舎球団と揶揄されるパリーグの西鉄ライオンズ(西武ライオンズの前身)が存在した。ところが、その田舎球団が私の小学3~5年の3年間(1956~1958年)セリーグの覇者、読売ジャイアンツを負かして日本一になった。その時の主砲が中西太さんだ。当時の私の大谷翔平かな?(笑)

 近年中西さんをテレビで見たのは、清宮幸太郎君が日本ハムに入団する際、「王さんのホームラン記録を塗り替えます」と豪語したことを、満面の笑顔で「だから野球は楽しい」と話していたことが、とても印象的だった。

 中西太さんのご冥福を祈ります。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 4329

Trending Articles