毎日新聞 2020年 6月5日 10時57分
サンデー毎日
【官邸内離婚で“軟禁”される菅】
桜で揺れ、コロナは丸腰、崩壊の戦犯は…
コロナ禍で急にほころびが顕著になってきた第2次安倍政権。ところが、ツートップである首相と官房長官の関係は「令和」スタートから崩れ始めていた。〝官邸内離婚〟とも揶揄(やゆ)される2人の確執の政治史をつまびらかにし、その背後でうごめく官邸崩壊の戦犯を明らかにしていく。
「余計なことを……。誰があんな原稿を書いたんだ。それを疑問と思わずに読んでしまう方もどうかしている。明らかに末期症状だ」
自民党OBはテレビを見て思わず、こうぼやいた。ぼやきの対象は5月25日18時、首相官邸で行われた首相・安倍晋三による緊急事態宣言の全面解除についての記者会見だ。
「我が国では、緊急事態を宣言しても罰則を伴う強制的な外出規制などを実施できない。それでも日本ならではのやり方で、わずか1カ月半で今回の流行をほぼ収束させることができた」
今なお憲法改正に変わらぬ執念を見せる安倍だが、新型コロナウイルス感染防止対策では、改正新型インフルエンザ等対策特別措置法を成立させて緊急事態宣言を発令したものの、「私権制限」まで持ち込めなかった。しかし、安倍は「国民の皆さま」を連発して褒めたたえ、コロナ対策で成果を得たことに胸を張ってみせた。
改憲推進派からすれば、今回の「宣言」を踏まえ、より私権を制限できる憲法改正の道筋を――との思惑も秘めていただけに水を差された思いだっただろう。
日本がコロナ禍に巻き込まれて以降、安倍の対応には何度も疑問符が付けられ、批判を誘発したことは、周知の通りだ。
例えば2月27日、突如、安倍の口から出た全国の小中高校や特別支援学校への臨時休校の要請はブーイングにまみれた。布マスク2枚配布の発表も4月1日と重なったことで、国内外から「エープリルフールか」と嘲笑を受けた。
この頃からだった。安倍と官房長官・菅義偉との連携がうまくいっていない、との報道が目立ち始めたのは。しかし、官邸を長い間、定点観測してきた者から見ると、「連携不足」は何も今に始まったことではない。長期政権の「緩み」「歪(ゆが)み」は官邸内を徐々に蝕(むしば)み、コロナ禍で一気に爆発した印象を拭えない。
官邸ツートップのほころびが目立つようになったのは、1年以上前にさかのぼる。2019年3月下旬。安倍は官邸の執務室で、菅と向き合っていた。当時の複数の情報メモを総合すると、間近に迫っていた新元号の発表方法について、安倍がこう切り出した、とある。
「発表は私が……」
途端に菅は「前例では官房長官です。前例に従いましょう」と切り返し、安倍の〝出番〟を封じた。そして4月1日11時41分、会見場で前例通り菅が「令和」と書かれた額を少し誇らしげに掲げ、新元号をお披露目したのだった。
その前例、「平成」発表の時と比較すると――。
1989年1月7日14時35分ごろ、官邸で開かれた新元号「平成」の発表は、当時の官房長官・小渕恵三が行った。小渕の第一声である「新しい元号は『平成』であります」は広く国民に知れ渡り、小渕は〝平成おじさん〟として世間に認知された。
当時の毎日新聞「首相日々」によると、首相・竹下登は朝6時27分、皇居に出向いている。7時55分に昭和天皇の崩御が発表され、8時22分から臨時閣議など目まぐるしい一日の様子が記されている。
「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう」
竹下のモットーだ。小渕が「平成」と書かれた額を掲げ新元号を発表する姿を見て、羨むこともなく、無事職務を遂行できたことに安堵(あんど)したのではないか。そう思わせるように「激動の一日」を終えた竹下は16時、早々と私邸に戻った。
一方、前例を盾に出番を阻まれた安倍は、竹下とは対照的な動きをみせた。安倍は菅発表会見後、間髪を入れず、12時5分に記者会見を開き、新元号の談話を発表、さらに午後にはメディアの取材に応じた。まるで、「新元号を発表したのは、この俺だ」との〝演出〟に腐心している様子が垣間見え、自民党内には「そこまでするか」と、眉をひそめる向きもあった。
安倍の「いじましさ」を強調する気はない。安倍は元々、何でも一番でないと気が済まない、言えば「俺が俺が」の性格だから。それよりも、なぜ菅が前例に固執したか、だ。
〝増長〟と受け取られた菅の行動
自民党中堅議員は、「安倍の総裁任期が残り2年半を切っていたからだ」と見る。そして、こう推察した。
「2018年9月、3選を果たした安倍には、4選の気はなかった。後任には岸田(文雄・政調会長)を考えていた。ところが、世論調査でも全く人気は伸びなかった。そんな中、永田町では菅待望論も囁(ささや)かれ始めた。何事にも慎重な菅は、その意欲を表に出すことはなかったが、悪い気はしなかったのではないか」
それだけではない。官房副長官経験者は、さらに菅は安倍との関係に亀裂を生むような行動を取ったと、指摘した。
「菅は19年5月に初訪米した。メディアは『外交デビュー』などと持ち上げたが、本来、内政を取り仕切り危機対応も担う官房長官は、東京を離れてはならない職務とされており、菅訪米には驚いたものだった」
菅は沖縄の基地負担軽減と拉致問題の担当相も兼ねる。どちらも米国とのパイプは欠かせないため、「訪米は駄目ではない」(安倍周辺)というが、前出の副長官経験者は新元号「令和」発表後、1カ月余での訪米に安倍も「菅に政権取りの色気あり」との疑念を抱いたのでは、と見立てる。
しかも、菅は副大統領・ペンスら米政府要人と会談をしたものの、「実は、米国側は『菅って、誰?』と不評だった。米国からすれば、2回目の米朝首脳会談が物別れに終わった後に拉致担当相が乗り込んでくるのは、外交センスがないなどとバッサリだった」(安倍周辺)
さらに、菅が〝増長した〟と受け止められる行動を起こした。19年7月の参院選だ。菅は激戦が予想された1人区をはじめ、かつてなく官邸を離れて精力的な応援行脚を重ね、公明党候補のテコ入れにも積極的だった。自民党関係者は語る。
「〝令和おじさん〟の知名度アップで応援要請の依頼は殺到したのだろう。しかし、選挙の際には、その顔は首相で、官房長官は黒子と棲(す)み分け、『官房長官は東京を離れない』のが常道。人気が出たことで、(ポスト安倍に)その気になったと受け取られても、仕方がないだろう」
二階続投で赤っ恥をかいた安倍
そんな菅の〝伸びた鼻〟が立て続けにくじかれた。
参院選後の8月7日、官邸に突如現れた衆院議員・小泉進次郎と滝川クリステル。官邸内で記者たちに囲まれた2人は、安倍に結婚報告をしたことを明かすなど私的問題で長広舌を振るった。先の党関係者は語る。
「安倍は単なる挨拶(あいさつ)と聞いていたら2人が現れ、結婚すると聞き、驚いた。それだけで済めば良かったが、2人は官邸内でぶら下がり会見までした。官邸でやるべきことではなく、『官邸は聖域』と思っている安倍にすれば、顔に泥を塗られた格好になった。『なんてことをするんだ!』と激怒しても、おかしくはない」
そして、この面会のセッティングは、菅だった。安倍の怒りの矛先は、当然ながら菅にも向いた。
もう一つ、安倍との関係悪化を決定づける「出来事」が起きた。「9月の党人事だった」と党ベテランは、こう具体的に続けた。
「幹事長の二階(俊博)外しを思い描いていた安倍に対し、菅が『待った』をかけた一件だった」
安倍の〝二階切り〟を察知した菅は、そのことを二階に耳打ちした。そこで、二階は安倍との面談を9月3日午前9時22分から10分間に設定し、その後のスケジュールも詰め込んでいた。面談は参院選を巡り和気あいあいのうちに進んだが、残り3分で安倍が切り出した。情報メモに残るやり取りの核心部分は、こうだ。
安倍「ところで。副総裁に就いてもらいたいのですが」
二階「それだったら、憲法改正で公明党からの協力が、どうなるかわかりませんよ。それでも、いいですね」
政界遊泳術のしたたかさで知られる二階は、「憲法改正を人質に拒否の動きに出た」(自民党主流派幹部)のだ。
解散権とともに人事権を巧みに使って1強体制を構築・維持してきた安倍だったが、この時ばかりは、「人事権も通じず、安倍は赤っ恥をかかされた格好になってしまった」(同)。
首相側近によれば、この幹事長人事を巡る「暗闘」を契機に、主(あるじ)の安倍と、女房役の菅の間に決定的なまでの亀裂が入り、〝官邸内別居〟状態へとつながっていったという。
その状況を見て官邸で実権を握り始めたのが、 首相秘書官兼首相補佐官・今井尚哉(たかや)だと、官邸幹部は証言する。
今井は経済産業省出身の安倍最側近として知られる。第1次安倍政権で首相秘書官に就き、安倍の信任を得た。今井は安倍が退陣した07年、経産省に戻った。しかし、その後も〝失意〟の安倍と、ひそかに交流を深めていた。12年、第2次安倍政権発足に際し、安倍は今井を政務担当の秘書官として迎えて報いた。
だが、菅と今井は第2次政権発足当初からソリが合わなかった。前出の官邸幹部は語る。
「政策通の今井と危機管理のプロの菅は、水と油。しかし、反目し合いながらも拮抗(きっこう)したパワーバランスが政権を支えていた。ところが、菅が推した側近2閣僚(前法相・河井克行と前経産相・菅原一秀)の辞任以降、そのバランスが急激に崩れていった。安倍は菅のために、二階切りに続き〝菅人事〟で再び恥をかかされ、菅抜きで物事を決めることが多くなっていった」
首相主催の「桜を見る会」疑惑では、野党は「モリ・カケ」同様に追及の手を緩めない。安倍は説明責任から逃れ、国会は大荒れになる。そして、菅が定例記者会見で質問を受け、答えに苦悶(くもん)する。そんな構図ができあがっていく。
例えば、今年最初となった1月7日午前の長官会見。記者から「内閣府が5年間の招待者名簿の廃棄記録を残していなかったことは、公文書ガイドラインに違反していたことになりますが、この事実関係と、なぜこのようなずさんな管理になったのか教えてください」と質問された場面だ。
菅は「残すべきものが残されていなかったことは事実。記載ミスがあったので、今後徹底することが大事だ」と答えた。つまり、政府が定めたガイドライン違反を認めた格好だ。
この種の質疑は当然あり得る。しかし、政治ジャーナリスト・安積(あづみ)明子は、こう話す。
「モリ・カケでも菅長官は散々追及されてきた。国会答弁で首相は曖昧だったり、妙な強気発言をする。その尻拭いのような形で、記者たちから会見で質問され、長官も疲れてしまったように見えた」
「菅はポスト安倍戦線から消えた」
気が付けば菅は、肝心の案件は素通りされ、疑惑処理などに振り回されていた。
「菅は、側近官僚のスキャンダルや『桜』の対応・追及による心労も重なり精彩がなくなったように見える。今や官邸内で〝軟禁〟状態、もっと言えば、『座敷牢(ろう)』に入れられたような状況になっており、ポスト安倍戦線から消えた。それが今の実相ではないか」(前出・主流派幹部)。
重要事項決定の際にカヤの外に置かれ、それでいて嫌なことばかり押し付けられているようなものだから、そんな目で見られるのも当然だろう。
コロナ対策も同様だ。冒頭に記したことは皆、菅抜きで進められてきた。それに、菅も迂闊(うかつ)に手出しできない状態だったと、別の党ベテランは明かす。
「菅は総務省、国土交通省、財務省、経産省などに強いネットワークを持っている。しかし、〝空白地帯〟があった。それが厚生労働省だった」
その弱点を補完していたのが、首相補佐官・和泉洋人(ひろと)だ。菅が頼りにしてきた官邸内官僚だが、その和泉もいわゆる 〝コネクティングルーム泊〟を『週刊文春』にスクープされ、表立って動けなくなった。
とはいえ、今井が〝強力な武器〟を持っていたわけではない。安倍は当初、コロナ禍対応を厚労相・加藤勝信に丸投げしたものの、埒(らち)が明かずイライラが募っていた。そこで妙案とばかりに今井が、日本医師会の要望にも応える形で学校一斉休校を進言したとされているが、それは混乱を招いただけだった。
相互信頼をベースに一体であるべき国政の司令塔・首相官邸に君臨する安倍と菅のツートップを見る目は、シビアだ。
主流派幹部にその一端を代弁してもらう。
「1年以上の確執で内政を混乱させ、国民を疲弊させた。安倍政権は高位安定の支持率をバックに長期政権を維持し、やりたい放題だったが、コロナ禍や黒川(弘務・前東京高検検事長)を巡る対応のまずさなどで、今やその面影は失(う)せてしまった。実際、自民党支持者からの批判・不満を吐き出すかのような『おしかりの電話』が、止(や)まないからね」
これまで、だんまりで来ていた自民党内からも「先が見えた」との声が上がり始めた「安倍1強政権」の先行きは。そして、ポスト安倍は――。
次号は、その舞台裏を追う。(敬称略)
(野上忠興) (本誌取材班)
のがみ・ただおき
1940年生まれ。64年、早大政経学部卒。佐藤栄作、田中角栄両首相番を振り出しに、共同通信政治記者歴20年。この間、自民党福田派・安倍派を中心に取材。自民など各キャップ、政治部次長などを歴任。2000年定年退職後、政治ジャーナリストとして独立。著書に『安倍晋三 沈黙の仮面:その血脈と生い立ちの秘密』(小学館)など
久しぶりに週刊誌の記事が読めて満足しています(笑)。現役時代は電車の中でながめるのによく週刊誌も買ったが、最近はとんと買うことがなくなった。昔の自民党の重鎮が「政界は一寸先、闇だよ」と言ったとか。正にこの記事をそんな姿を物語っている気がする。
小父さんとしては、安倍総理(65歳)、麻生副総理(79歳)、菅官房長官(71歳)、二階自民党幹事長(81歳)が早く辞めてくれないかな~とずっと思っている。
サンデー毎日
【官邸内離婚で“軟禁”される菅】
桜で揺れ、コロナは丸腰、崩壊の戦犯は…
コロナ禍で急にほころびが顕著になってきた第2次安倍政権。ところが、ツートップである首相と官房長官の関係は「令和」スタートから崩れ始めていた。〝官邸内離婚〟とも揶揄(やゆ)される2人の確執の政治史をつまびらかにし、その背後でうごめく官邸崩壊の戦犯を明らかにしていく。
「余計なことを……。誰があんな原稿を書いたんだ。それを疑問と思わずに読んでしまう方もどうかしている。明らかに末期症状だ」
自民党OBはテレビを見て思わず、こうぼやいた。ぼやきの対象は5月25日18時、首相官邸で行われた首相・安倍晋三による緊急事態宣言の全面解除についての記者会見だ。
「我が国では、緊急事態を宣言しても罰則を伴う強制的な外出規制などを実施できない。それでも日本ならではのやり方で、わずか1カ月半で今回の流行をほぼ収束させることができた」
今なお憲法改正に変わらぬ執念を見せる安倍だが、新型コロナウイルス感染防止対策では、改正新型インフルエンザ等対策特別措置法を成立させて緊急事態宣言を発令したものの、「私権制限」まで持ち込めなかった。しかし、安倍は「国民の皆さま」を連発して褒めたたえ、コロナ対策で成果を得たことに胸を張ってみせた。
改憲推進派からすれば、今回の「宣言」を踏まえ、より私権を制限できる憲法改正の道筋を――との思惑も秘めていただけに水を差された思いだっただろう。
日本がコロナ禍に巻き込まれて以降、安倍の対応には何度も疑問符が付けられ、批判を誘発したことは、周知の通りだ。
例えば2月27日、突如、安倍の口から出た全国の小中高校や特別支援学校への臨時休校の要請はブーイングにまみれた。布マスク2枚配布の発表も4月1日と重なったことで、国内外から「エープリルフールか」と嘲笑を受けた。
この頃からだった。安倍と官房長官・菅義偉との連携がうまくいっていない、との報道が目立ち始めたのは。しかし、官邸を長い間、定点観測してきた者から見ると、「連携不足」は何も今に始まったことではない。長期政権の「緩み」「歪(ゆが)み」は官邸内を徐々に蝕(むしば)み、コロナ禍で一気に爆発した印象を拭えない。
官邸ツートップのほころびが目立つようになったのは、1年以上前にさかのぼる。2019年3月下旬。安倍は官邸の執務室で、菅と向き合っていた。当時の複数の情報メモを総合すると、間近に迫っていた新元号の発表方法について、安倍がこう切り出した、とある。
「発表は私が……」
途端に菅は「前例では官房長官です。前例に従いましょう」と切り返し、安倍の〝出番〟を封じた。そして4月1日11時41分、会見場で前例通り菅が「令和」と書かれた額を少し誇らしげに掲げ、新元号をお披露目したのだった。
その前例、「平成」発表の時と比較すると――。
1989年1月7日14時35分ごろ、官邸で開かれた新元号「平成」の発表は、当時の官房長官・小渕恵三が行った。小渕の第一声である「新しい元号は『平成』であります」は広く国民に知れ渡り、小渕は〝平成おじさん〟として世間に認知された。
当時の毎日新聞「首相日々」によると、首相・竹下登は朝6時27分、皇居に出向いている。7時55分に昭和天皇の崩御が発表され、8時22分から臨時閣議など目まぐるしい一日の様子が記されている。
「汗は自分でかきましょう。手柄は人にあげましょう」
竹下のモットーだ。小渕が「平成」と書かれた額を掲げ新元号を発表する姿を見て、羨むこともなく、無事職務を遂行できたことに安堵(あんど)したのではないか。そう思わせるように「激動の一日」を終えた竹下は16時、早々と私邸に戻った。
一方、前例を盾に出番を阻まれた安倍は、竹下とは対照的な動きをみせた。安倍は菅発表会見後、間髪を入れず、12時5分に記者会見を開き、新元号の談話を発表、さらに午後にはメディアの取材に応じた。まるで、「新元号を発表したのは、この俺だ」との〝演出〟に腐心している様子が垣間見え、自民党内には「そこまでするか」と、眉をひそめる向きもあった。
安倍の「いじましさ」を強調する気はない。安倍は元々、何でも一番でないと気が済まない、言えば「俺が俺が」の性格だから。それよりも、なぜ菅が前例に固執したか、だ。
〝増長〟と受け取られた菅の行動
自民党中堅議員は、「安倍の総裁任期が残り2年半を切っていたからだ」と見る。そして、こう推察した。
「2018年9月、3選を果たした安倍には、4選の気はなかった。後任には岸田(文雄・政調会長)を考えていた。ところが、世論調査でも全く人気は伸びなかった。そんな中、永田町では菅待望論も囁(ささや)かれ始めた。何事にも慎重な菅は、その意欲を表に出すことはなかったが、悪い気はしなかったのではないか」
それだけではない。官房副長官経験者は、さらに菅は安倍との関係に亀裂を生むような行動を取ったと、指摘した。
「菅は19年5月に初訪米した。メディアは『外交デビュー』などと持ち上げたが、本来、内政を取り仕切り危機対応も担う官房長官は、東京を離れてはならない職務とされており、菅訪米には驚いたものだった」
菅は沖縄の基地負担軽減と拉致問題の担当相も兼ねる。どちらも米国とのパイプは欠かせないため、「訪米は駄目ではない」(安倍周辺)というが、前出の副長官経験者は新元号「令和」発表後、1カ月余での訪米に安倍も「菅に政権取りの色気あり」との疑念を抱いたのでは、と見立てる。
しかも、菅は副大統領・ペンスら米政府要人と会談をしたものの、「実は、米国側は『菅って、誰?』と不評だった。米国からすれば、2回目の米朝首脳会談が物別れに終わった後に拉致担当相が乗り込んでくるのは、外交センスがないなどとバッサリだった」(安倍周辺)
さらに、菅が〝増長した〟と受け止められる行動を起こした。19年7月の参院選だ。菅は激戦が予想された1人区をはじめ、かつてなく官邸を離れて精力的な応援行脚を重ね、公明党候補のテコ入れにも積極的だった。自民党関係者は語る。
「〝令和おじさん〟の知名度アップで応援要請の依頼は殺到したのだろう。しかし、選挙の際には、その顔は首相で、官房長官は黒子と棲(す)み分け、『官房長官は東京を離れない』のが常道。人気が出たことで、(ポスト安倍に)その気になったと受け取られても、仕方がないだろう」
二階続投で赤っ恥をかいた安倍
そんな菅の〝伸びた鼻〟が立て続けにくじかれた。
参院選後の8月7日、官邸に突如現れた衆院議員・小泉進次郎と滝川クリステル。官邸内で記者たちに囲まれた2人は、安倍に結婚報告をしたことを明かすなど私的問題で長広舌を振るった。先の党関係者は語る。
「安倍は単なる挨拶(あいさつ)と聞いていたら2人が現れ、結婚すると聞き、驚いた。それだけで済めば良かったが、2人は官邸内でぶら下がり会見までした。官邸でやるべきことではなく、『官邸は聖域』と思っている安倍にすれば、顔に泥を塗られた格好になった。『なんてことをするんだ!』と激怒しても、おかしくはない」
そして、この面会のセッティングは、菅だった。安倍の怒りの矛先は、当然ながら菅にも向いた。
もう一つ、安倍との関係悪化を決定づける「出来事」が起きた。「9月の党人事だった」と党ベテランは、こう具体的に続けた。
「幹事長の二階(俊博)外しを思い描いていた安倍に対し、菅が『待った』をかけた一件だった」
安倍の〝二階切り〟を察知した菅は、そのことを二階に耳打ちした。そこで、二階は安倍との面談を9月3日午前9時22分から10分間に設定し、その後のスケジュールも詰め込んでいた。面談は参院選を巡り和気あいあいのうちに進んだが、残り3分で安倍が切り出した。情報メモに残るやり取りの核心部分は、こうだ。
安倍「ところで。副総裁に就いてもらいたいのですが」
二階「それだったら、憲法改正で公明党からの協力が、どうなるかわかりませんよ。それでも、いいですね」
政界遊泳術のしたたかさで知られる二階は、「憲法改正を人質に拒否の動きに出た」(自民党主流派幹部)のだ。
解散権とともに人事権を巧みに使って1強体制を構築・維持してきた安倍だったが、この時ばかりは、「人事権も通じず、安倍は赤っ恥をかかされた格好になってしまった」(同)。
首相側近によれば、この幹事長人事を巡る「暗闘」を契機に、主(あるじ)の安倍と、女房役の菅の間に決定的なまでの亀裂が入り、〝官邸内別居〟状態へとつながっていったという。
その状況を見て官邸で実権を握り始めたのが、 首相秘書官兼首相補佐官・今井尚哉(たかや)だと、官邸幹部は証言する。
今井は経済産業省出身の安倍最側近として知られる。第1次安倍政権で首相秘書官に就き、安倍の信任を得た。今井は安倍が退陣した07年、経産省に戻った。しかし、その後も〝失意〟の安倍と、ひそかに交流を深めていた。12年、第2次安倍政権発足に際し、安倍は今井を政務担当の秘書官として迎えて報いた。
だが、菅と今井は第2次政権発足当初からソリが合わなかった。前出の官邸幹部は語る。
「政策通の今井と危機管理のプロの菅は、水と油。しかし、反目し合いながらも拮抗(きっこう)したパワーバランスが政権を支えていた。ところが、菅が推した側近2閣僚(前法相・河井克行と前経産相・菅原一秀)の辞任以降、そのバランスが急激に崩れていった。安倍は菅のために、二階切りに続き〝菅人事〟で再び恥をかかされ、菅抜きで物事を決めることが多くなっていった」
首相主催の「桜を見る会」疑惑では、野党は「モリ・カケ」同様に追及の手を緩めない。安倍は説明責任から逃れ、国会は大荒れになる。そして、菅が定例記者会見で質問を受け、答えに苦悶(くもん)する。そんな構図ができあがっていく。
例えば、今年最初となった1月7日午前の長官会見。記者から「内閣府が5年間の招待者名簿の廃棄記録を残していなかったことは、公文書ガイドラインに違反していたことになりますが、この事実関係と、なぜこのようなずさんな管理になったのか教えてください」と質問された場面だ。
菅は「残すべきものが残されていなかったことは事実。記載ミスがあったので、今後徹底することが大事だ」と答えた。つまり、政府が定めたガイドライン違反を認めた格好だ。
この種の質疑は当然あり得る。しかし、政治ジャーナリスト・安積(あづみ)明子は、こう話す。
「モリ・カケでも菅長官は散々追及されてきた。国会答弁で首相は曖昧だったり、妙な強気発言をする。その尻拭いのような形で、記者たちから会見で質問され、長官も疲れてしまったように見えた」
「菅はポスト安倍戦線から消えた」
気が付けば菅は、肝心の案件は素通りされ、疑惑処理などに振り回されていた。
「菅は、側近官僚のスキャンダルや『桜』の対応・追及による心労も重なり精彩がなくなったように見える。今や官邸内で〝軟禁〟状態、もっと言えば、『座敷牢(ろう)』に入れられたような状況になっており、ポスト安倍戦線から消えた。それが今の実相ではないか」(前出・主流派幹部)。
重要事項決定の際にカヤの外に置かれ、それでいて嫌なことばかり押し付けられているようなものだから、そんな目で見られるのも当然だろう。
コロナ対策も同様だ。冒頭に記したことは皆、菅抜きで進められてきた。それに、菅も迂闊(うかつ)に手出しできない状態だったと、別の党ベテランは明かす。
「菅は総務省、国土交通省、財務省、経産省などに強いネットワークを持っている。しかし、〝空白地帯〟があった。それが厚生労働省だった」
その弱点を補完していたのが、首相補佐官・和泉洋人(ひろと)だ。菅が頼りにしてきた官邸内官僚だが、その和泉もいわゆる 〝コネクティングルーム泊〟を『週刊文春』にスクープされ、表立って動けなくなった。
とはいえ、今井が〝強力な武器〟を持っていたわけではない。安倍は当初、コロナ禍対応を厚労相・加藤勝信に丸投げしたものの、埒(らち)が明かずイライラが募っていた。そこで妙案とばかりに今井が、日本医師会の要望にも応える形で学校一斉休校を進言したとされているが、それは混乱を招いただけだった。
相互信頼をベースに一体であるべき国政の司令塔・首相官邸に君臨する安倍と菅のツートップを見る目は、シビアだ。
主流派幹部にその一端を代弁してもらう。
「1年以上の確執で内政を混乱させ、国民を疲弊させた。安倍政権は高位安定の支持率をバックに長期政権を維持し、やりたい放題だったが、コロナ禍や黒川(弘務・前東京高検検事長)を巡る対応のまずさなどで、今やその面影は失(う)せてしまった。実際、自民党支持者からの批判・不満を吐き出すかのような『おしかりの電話』が、止(や)まないからね」
これまで、だんまりで来ていた自民党内からも「先が見えた」との声が上がり始めた「安倍1強政権」の先行きは。そして、ポスト安倍は――。
次号は、その舞台裏を追う。(敬称略)
(野上忠興) (本誌取材班)
のがみ・ただおき
1940年生まれ。64年、早大政経学部卒。佐藤栄作、田中角栄両首相番を振り出しに、共同通信政治記者歴20年。この間、自民党福田派・安倍派を中心に取材。自民など各キャップ、政治部次長などを歴任。2000年定年退職後、政治ジャーナリストとして独立。著書に『安倍晋三 沈黙の仮面:その血脈と生い立ちの秘密』(小学館)など
久しぶりに週刊誌の記事が読めて満足しています(笑)。現役時代は電車の中でながめるのによく週刊誌も買ったが、最近はとんと買うことがなくなった。昔の自民党の重鎮が「政界は一寸先、闇だよ」と言ったとか。正にこの記事をそんな姿を物語っている気がする。
小父さんとしては、安倍総理(65歳)、麻生副総理(79歳)、菅官房長官(71歳)、二階自民党幹事長(81歳)が早く辞めてくれないかな~とずっと思っている。