毎日新聞 2020年6月3日 東京夕刊
ソーシャルディスタンスは新しい生活習慣になりそうだ。実はこの「距離を置く」という人間関係は、江戸時代の人々の得意とするところだった。たとえば食卓を囲む、その食卓というものがなかった。食卓は近代になってから定着したものだ。同じ皿から料理を分けることもしなかった。食事は銘々膳と各自の茶わんと箸を使った。銘々膳は前後左右にくっつけることが難しい。旅館などの宴会の情景でもわかるように、向かいの人とはだいぶ距離がある。
握手もハグもハイタッチもせず、お辞儀をする。お辞儀をするには頭がぶつからないよう、最低160センチぐらいはあけねばならない。家を訪問する際は、込み入った話がない限り上がりこまない。玄関は座るのにちょうど良い高さになっていて、そこに座って用事をすませる。あるいは庭にまわって縁側で話す。この時も、家の者はそばに座りはするが、対面にはならず、距離を置いて斜めに関わることになる。
料理屋でも座敷に上がれば銘々の盆か膳で食べる。くっつくことは難しい。 居酒屋や水茶屋(喫茶店)の場合はベンチ式だ。つまり横並びで座り、カウンターもなく、酒や茶は自分の横に置くので、おのずと隣とは距離があく。しかも、冬でさえも密閉空間にはできない。換気が良すぎるくらいだ。
さらに「敬語」というたいへん便利なものがある。ついこのあいだまで、日本人は敬語の度合いや微妙なニュアンスを使い分け、あまり親しくなりたくない人とはそれとなく距離を置くことができたのである。敬語を虚礼と考えるのは誰とでも友達になりたい人かもしれないが、世の中には友達になりたくない人もいる。私は学生に、敬語は自分の身を守るためにあるのだから、使いこなせるようになってほしいと伝えてきた。
ソーシャルディスタンスと依存しない人間関係が、江戸時代をつくったのである。(法政大総長)
田中優子先生の話は興味深いです。学問は歴史と近代の共通性をあぶり出すことが出来るのですね。日頃は関口宏のサンデーモーニングでのご高説を拝聴しております。敬語こそが日本の文化なんですね。大切にしていかねば・・・。
ソーシャルディスタンスは新しい生活習慣になりそうだ。実はこの「距離を置く」という人間関係は、江戸時代の人々の得意とするところだった。たとえば食卓を囲む、その食卓というものがなかった。食卓は近代になってから定着したものだ。同じ皿から料理を分けることもしなかった。食事は銘々膳と各自の茶わんと箸を使った。銘々膳は前後左右にくっつけることが難しい。旅館などの宴会の情景でもわかるように、向かいの人とはだいぶ距離がある。
握手もハグもハイタッチもせず、お辞儀をする。お辞儀をするには頭がぶつからないよう、最低160センチぐらいはあけねばならない。家を訪問する際は、込み入った話がない限り上がりこまない。玄関は座るのにちょうど良い高さになっていて、そこに座って用事をすませる。あるいは庭にまわって縁側で話す。この時も、家の者はそばに座りはするが、対面にはならず、距離を置いて斜めに関わることになる。
料理屋でも座敷に上がれば銘々の盆か膳で食べる。くっつくことは難しい。 居酒屋や水茶屋(喫茶店)の場合はベンチ式だ。つまり横並びで座り、カウンターもなく、酒や茶は自分の横に置くので、おのずと隣とは距離があく。しかも、冬でさえも密閉空間にはできない。換気が良すぎるくらいだ。
さらに「敬語」というたいへん便利なものがある。ついこのあいだまで、日本人は敬語の度合いや微妙なニュアンスを使い分け、あまり親しくなりたくない人とはそれとなく距離を置くことができたのである。敬語を虚礼と考えるのは誰とでも友達になりたい人かもしれないが、世の中には友達になりたくない人もいる。私は学生に、敬語は自分の身を守るためにあるのだから、使いこなせるようになってほしいと伝えてきた。
ソーシャルディスタンスと依存しない人間関係が、江戸時代をつくったのである。(法政大総長)
田中優子先生の話は興味深いです。学問は歴史と近代の共通性をあぶり出すことが出来るのですね。日頃は関口宏のサンデーモーニングでのご高説を拝聴しております。敬語こそが日本の文化なんですね。大切にしていかねば・・・。