上の地図と下の写真はthinkpodさんのブログreference archivesからお借りした。
毎日新聞 2020年1月20日 西部夕刊 オッショイ!九州
「九州の勤務は初めてで……」。昨春、東京から福岡に赴任して自己紹介でそうあいさつすることが多い。小学生の時、父(74)が宮崎に単身赴任していたこともあって、家族旅行で九州を巡ったが、縁といえばそれくらいしかないと思っていた。
ところが、年末の帰省で一変した。横浜の実家で父と飲んだ時、博多港を巡る私の記事を父が話題にしたのがきっかけだ。終戦後に佐世保港と並んで国内最多の139万人が引き揚げた博多港。その記憶の継承が課題になっている現状をまとめた記事だった。父が言った。「実は俺も博多港に引き揚げたんだ」。1946年8月、生後10カ月の父は病院船で天津から博多港にたどり着き汽車で千葉に戻ったのだという。
父が終戦間もない頃に中国で生まれたことは知っていたが、博多に引き揚げたとは知らなかった。乳児だった父が病気がちだったために病院船に乗れたらしい。もし父が元気で船に乗ることがなかったら、果たして自分は生まれてきただろうか……。父が注いでくれたビールが、わずかにほろ苦くなった。【飯田憲】
小父さんも福岡(博多)で生まれ育ったのだが、ことに博多港には縁もなかったし、博多にそんな歴史があったことは知らなかった。古くから大陸の玄関として栄えたんだよね。1889年 に市制施行により、福岡市が出来てからは博多という名称がどんどん薄くなっていったんじゃーないかな?恥ずかしながら、関西にやって来て「博多」という地名が「福岡」より、いかに全国的に知られているかを学んだ気がする。このコラムを読んで、郷土史をもっと知っておくべきだと感じた。
毎日新聞 2020年1月20日 西部夕刊 オッショイ!九州
「九州の勤務は初めてで……」。昨春、東京から福岡に赴任して自己紹介でそうあいさつすることが多い。小学生の時、父(74)が宮崎に単身赴任していたこともあって、家族旅行で九州を巡ったが、縁といえばそれくらいしかないと思っていた。
ところが、年末の帰省で一変した。横浜の実家で父と飲んだ時、博多港を巡る私の記事を父が話題にしたのがきっかけだ。終戦後に佐世保港と並んで国内最多の139万人が引き揚げた博多港。その記憶の継承が課題になっている現状をまとめた記事だった。父が言った。「実は俺も博多港に引き揚げたんだ」。1946年8月、生後10カ月の父は病院船で天津から博多港にたどり着き汽車で千葉に戻ったのだという。
父が終戦間もない頃に中国で生まれたことは知っていたが、博多に引き揚げたとは知らなかった。乳児だった父が病気がちだったために病院船に乗れたらしい。もし父が元気で船に乗ることがなかったら、果たして自分は生まれてきただろうか……。父が注いでくれたビールが、わずかにほろ苦くなった。【飯田憲】
小父さんも福岡(博多)で生まれ育ったのだが、ことに博多港には縁もなかったし、博多にそんな歴史があったことは知らなかった。古くから大陸の玄関として栄えたんだよね。1889年 に市制施行により、福岡市が出来てからは博多という名称がどんどん薄くなっていったんじゃーないかな?恥ずかしながら、関西にやって来て「博多」という地名が「福岡」より、いかに全国的に知られているかを学んだ気がする。このコラムを読んで、郷土史をもっと知っておくべきだと感じた。