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高齢者大学  「私の意見・体験発表」 ①

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()内が発表のテーマ  ~記事および写真共、順不動~

(私のふるさとは南の海の町)
淡路島の紀淡海峡に面している由良町は映画『北の零年』にも取り上げられた城代家老稲田家及び家臣が、お家騒動の責任で北海道静内に移住させられ開拓民になった縁の地でもあるとのこと。明治の初めまでは阿波藩、そして兵庫県へと所属に変わる。また江戸時代の終わりは海岸線防備のためにお台場も築かれていた。明治には大阪湾防衛のための由良要塞に対岸の加太、友ヶ島の煉瓦造りの砲台跡は、映画『天空の城ラピュタ』を思わせる遺跡で観光の名所になっている。子供の頃はテグス産業がが盛んでテグスすきをする女性もよく見かけた。タイトルはテレサテンの歌『ふるさとはどこですか』から名付けた他。

 『北の零年』が淡路からの左遷だとか、釣り糸が蛾の幼虫の絹糸腺から由良で作られた、『天空の城ラピュタ』も由良の対岸の島にある等々、淡路島のことを何も分かっていないことをまた認識した。発表者は旧陸軍の司令部の建物を中学時代を過ごしたんだって。


(1年に例えると)
地球が誕生したのは46億年前。その46億年を1年に例えると1月1日が地球誕生の日。2月17日(40~35
億年前)には海底に生命が生まれ、5月31日(27億年前)には浅い海では太陽の光で光合成がはじまり、新たな栄養を獲得。11月13日(6億年前)超氷河期の終わりに多細胞生物が発展。温暖化で微生物から1cm~30cmの生物の誕生。11月21日(5億年~4奥千万年前)オゾン層が出来て地表の紫外線が減り、植物が上陸。12月1日(3億9千万年前)真水で魚が発展(4億5千万年~3億5千万年前?)大森林ができて昆虫が急発展(4億~3億年前)。12月10日(2億5千万年前~2億年前)巨大火災活動で生物種の96%が絶滅。噴火は断続的に60万年ほど続く。生き延びた生物から爬虫類、恐竜、ほ乳類が登場。12月23日(1億~6千5百万年前)隕石が衝突して恐竜が絶滅。12月24日(6千5百万年前)鳥類と爬虫類が発展。12月31日午前零時(1260万年前)。午前10時41分(700万年前)最古の人類が登場。午後7時(250万年前)道具を手にして人類が発展。午後11時59分(1万年前)農耕が始まった。午後11時59分58秒(250年前)産業革命で人類がエネルギーを大量消費はじめた。~資料の元 西本 昌司(著) 「地球のはじまりから ダイジェスト 地球のしくみと生命進化46憶年」

人類最古の歴史が700万年前からに対し、恐竜は1憶5000万年続いている。巨大隕石の落下がなければ、その後どれだけ続いていることか。人類は少なくとも恐竜より賢いはず、子孫が何年もこの地球で生き続くよう知恵を絞らないといけないと思う!(発表者)

こうやって青くて輝く素晴らしい星・地球のことを楽しく考えることが出来て心が豊かになった気がする。地球の歴史を振り返ると、我々は大晦日の年が変わる直前をバタバタ大騒ぎしているに過ぎないんだ。消費税2%アップ~、ちいせー、ちいせー、電子顕微鏡の世界かな?(笑)



(高齢者大学と私)
1.入学時の仲間達 (2011年5月に入学)
 〇同期の仲間5名(男性1.女性4)⇒ 現在の在籍者5名・減少0
 〇判別(3班)の仲間12名(男性7.女性5)⇒ 現在の在籍者6名(男性1名。女性5名)・減少男性6
  高齢者大学で学ぶ女性は頑張り屋さんが多い。
2.入学動機
 〇知識の習得
 〇学級性とのふれあい
  ①銀行員だったので頭が固くなりがちだった②退職して時間に余裕ができた③現役中は近隣の人たち
   を知らず、近隣の人たちと触れ合いたかった④コミセン通信で高齢者大学のことを知った 
3.体験発表への挑戦
  明石市のコミセン(コミュニティセンター)で高丘学級だけの名物。
  過去の学級生のテーマ「私の定年後のあゆみ」「我が人生に踊りあり」「私のイタリア旅行記」
  「私の戦争体験談」「一寸の魂にも五分の魂」「60歳からの私の体験談」「放送大学で発表したこと」
  「久しく続けたいこと」「二つのマラソン」「茅誠司先生から教わったこと」「私の体験談」
  「ボランティアについて」「コミセンと私」「コミセン活動について」「コミセンに参加して」
  「『まち学』のすすめ」「私の失敗談」「スイスにて」「ボランティア活動」
  〇脳ある鷹は爪を隠さず
   自分を他人に理解してもらうには爪を出すのが最良の方法
 次回の体験発表は1月22日です。思いきって挑戦してみてはいかがでしょうか!(発表者)

4.高齢者大学の良いところ
 〇安・近・短
5.これからの私
 〇小泉所長⇒加澤所長⇒坪井所長に感謝
  歴代のコミセン所長が作られた魅力ある講座を受けら、学級生の皆さんと楽しく触れ合うことができ、
  これからも良き思い出のページを作っていきたい。
 〇明るく 楽しく 元気よく
 〇 Let it Go  あるがままに

小父さんも今年で合計9年目になると思うが、コミセンの数々の懐かしい事柄を 発表で聞くことができ嬉しかった。いやー、継続は力なりとはこのことなんだろうね。


        


(電話相談(傾聴)ボランティア)
1.何故ボランティアを始めたか・・・「神経症」
私は中学生時代からノイローゼで悩まされた。今すべきことが手につかないという症状があった。学校にもなかなか馴染めず、かなり回り道をして社会人になった。神経症でいろんな本も読んだが、森田療法が一番身近に感じた。「恐怖、不安の感情は、おこるべき時期と境遇に応じて必然的におこるものであって、心のやりくでこれをどうすることもできない。どんなにつらくはあれ、そうした感情のあるがままに身をゆだねる努力を続けるならば、、人間の精神は外界の変化に応じてしだいに流動を開始し、恐怖、不安は消滅していく」今でもこの森田療法のことを思い出す。

そのような経験から、自分と同じような生きづらい想いをしている人を助けることが出来るようなことが出来たらと願っていた。ある時、電話相談ボランティアの養成講座を見た。養成講座を終えて実際に電話を取るようになったが、仕事を終えてブースに入るので大変だった。仕事も、趣味も違う仲間との出会いは新鮮だったい、多くのすばらしい人との出会いがあった。

2.実際の電話相談
人には話を聞いてもらえる人(悩みを話せる人)が必要。

3.聴くことのたいせつさ「じっと聴くこと、そのことの力を感じる」
『聴くことの力・鷲田清・TBSブリタニカ』
問い「わたしはもうだめなのではないでしょうか?」
①「そんなこと言わないで、もっとがんばりなさいよ」と励ます。
②「そんなこと心配しないでいいんですよ」と答える。
③「どうしてそんな気持ちになるの」と聞き返す。
④「これだけ痛みがあると、そんな気にもなるね」と同情を示す。
⑤「もうだめなんだ・・・そんな気がするのですね」と返す。
  聴くことが、ことばを受けとめることが、他社の自己理解の場をひらく。

皆さんならどう答えますか?どれが正解ということはないのですが、多くの
精神科医は⑤を答えます。

『聞く力・阿川佐和子・文春文庫』サワコの朝(土曜日午前7時半4ch)
聞くだけで人様の役に立つのだ 「聞いてくれてありがとう」
ただ聞くこと、それが相手の心を開く鍵なのです(臨床心理学者・河合隼男)

「傍聴へのメッセージ」
私が「聴いて」と言っているのに、あなたはアレコレとアドバイスを与えてくれる/ それは、私が頼んだことじゃない。・・・/ 私は「聴いて」と言っているのに、あなたは、どうにかして私の問題を解決してやろうとする。・・・/ 「聴いて」/私は「何かを話して」とか「何とかして」頼んだわけじゃない/ ただ「聴いて」、ただ「耳を傾けて」と言っただけ/ 私だってできる。力がないわけじゃない。

4.後期=光輝高齢者 
知人からこんな言葉を見せられたので、パソコンの変換間違いじゃーないだろうかと尋ねたら、「違う、光輝く高齢者でなければいけない」のだとか、少しでもそのようになっていきたい。

資料を見て、教室で聞き、ここに打ち込んでみたら、実にすばらしい内容であったと感心した。分かりやすい言葉で人の話を聞く態度を説明され私自身の大きな戒めになった。


(オリンピックに思うこと)
1940年の大会は中止。1964年の東京大会は中学時代でテレビでしっかり観ていたが、東洋の魔女のバレーボール、マラソンの円谷、アベベ選手、体操も強かったがお家芸の柔道では軽量、中量、重量級では金メダルを取っているのに無差別級でオランダのヘーシンクに敗れたことで日本の柔道界すべてが敗れたような空気が流れていたようだ。オリンピック映画を学校から最寄りの小さな映画館だったので生徒を分割して交代で観た。すばらしいファンファーレ、入場行進の話等、学級性生徒も思い出に浸った。

小父さんは高校2年で、家族みんなで、とことんテレビを観ていたな。金メダル取る度に大いに喜んだものだが、なによりも印象深く刻まれているのは各国の選手たちの入り乱れた閉会式の入場行進!嬉しかったな~。本当に世界がひとつになった気がした。ところが、今の時代は複数の国が自国第一を掲げての経済戦争状態。一触即発で武力闘争も始まろうとしているじゃーないかい。あの閉会式の光景は正にユートピア(どこにもない国の意)だったんだね。


(阪神・淡路大震災における避難所でのあれこれ)
あれから24年が経ったが須磨区に住んでいて、前年夫を見送ったばかりだった。自宅に残るという祖父を息子に説得させ東須磨の小学校に避難した。一人一枚の毛布では寒く、2枚もらって新聞を敷き込んでもまだ寒かったが物資が入ってくるようになってからやっとダンボールが配給されてやっと落ち着いた。広かった教室も寝返りもうてないくらいのすし詰め目状態になる。何も情報がない中、二日目の朝配られた新聞を貪るように読んだ。1~2日目はトイレ掃除にも追われた。水がないので汚物をスコップで袋に入れプールの水で流すことの繰り返し。仮設トイレが入ったのは3日目。食事水は1日目の深夜に。一家族に1本のペットボトルと、何も入っていない冷たいおにぎりだったがとても美味しかった、などなど。 

生々しい避難所での体験を聞き、あの不運な日々のことが蘇った。5日目だったか、やっと教室に照明が入り、皆の拍手が起こったんだとか。明石市に住んでいた者は、大震災と言ったら東日本大震災の方ばかりに目が向き、地元のことの記憶が日々に薄れていっていると思う。今、こうしてキーボードを打ちながら、戦災体験とダブった印象すら湧いた。これらのことは、是非、孫世代にも語り継ぐ必要があるだろう。


(コミュニティセンター所長講評)
皆さんの発表全体に共通するのは「出会い、触れ合い、学び合い」の三つで高齢者大学のテーマでもあるし、コミセン活動のテーマでもある。そういう意義がとても大きかったと思う。〇安・近・短は的を得ていた。ここに来られている人の顔は実に生き生きとされている。

淡路の由良を過ぎた所に青少年休暇村があったので生徒を連れてよく行っていた。「ふるさと」と聞いたら皆さんはどんな歌を思い浮かべられるか?ネットで調べたら「春の小川」「赤トンボ」を想い浮かべられるらしいですが、我々が今ここに居る原点はふるさとなわけでお互いに大切にしていきたいです。

大震災の際は職業柄、神戸に行かずに明石の学校に残っていた。ここで言われるのは災害時には、自助・共助・公助が互いに連携し一体となること。消防車も動きがとれない結果、隣近所で消火活動をやる対処。高齢者の方、ペットの犬猫等の対策。HUGは避難所(Hinanzyo)運営(Unei)ゲーム(Game)を日頃からやっておくことも大切。

地球の歴史を学ぶことはとても大切なことだと思う、。昔この本に触れ、我々は1秒にも満たない生命なのかと知ったことも思い出す。光合成とか爬虫類の話題もあったが、私も理科の授業で取り扱ったこともあり。

私は東京オリンピックというと重量挙げが一番記憶に残っている。東京オリンピックの映画も小学生時代、友達と観に行って「子供だけで行ってはいかんやろう!」と先生に叱られたこともある。聖火ランナーを見た方はいますか?また国道を走ると思う。

電話相談ボランティアの話は、教師にもよく言われる内容です。「何を言うとんねん」とか「こんなんわからへんのかー」みたいなことを言ったら駄目だと教育された。皆さんは自分の子には①「そんなこと言わないで、もっとがんばりなさいよ」と言ってなかったか?かつ、孫には⑤「もうだめなんだ・・・そんな気がするのですね」と言われたんじゃないか?(笑)。耳を傾けて聴いてあげることの大切さですね。

6人の発表者の方の内容を簡潔にまとめていただいて、今日の意義を反芻した。実は、小父さんは副委員長が司会をやれということで、前日から資料に目を通して準備していたが、どうもあまり肩に力が入りすぎていてピントが外れていたことを話したなとこの記録をまとめて再認識した。反省!

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