今、持っているビデオカメラでの初めての動画。左手に資料を持っていたのでズームが使えなかった。
歩こう会は参加者25名と少なかったが、参加者はとても楽しそうにされていたのが何より嬉しかった!
2018 11 24 ぶらり歩こう会 JR大久保~JR西明石
(動画中の字幕説明)
・道路元標(どうろげんぴょう)とは道路の起終点を示す標識である。1919年(大正8年)の旧道路法では各市町村に一個ずつ道路元標を設置することとされていた。
・西国街道は、江戸時代における街道の1つであり、西国路、中国街道、中国路、山陽路などとも呼ばれる。
・明治天皇大久保御小休所跡・・・安藤家洋館の場所が1885年の明治天皇山陽道ご巡幸中の御小休所となりました。実際は南にある木造の建物を使われた
・安藤進太郎頌徳碑・・・【読み下し】故衆議院議員勲三等安藤新太郎氏は夙(つと)に海運業に従い天資英邁郷閭(きょうりょ)を愛するの念篤く、大正八年大久保村基本財産金壱万円、大久保小学校同金壱万円を各寄付すべきことを遺命す。嗣子(しし)医学博安藤秀三氏亦資性誠実克く先考の遺志を体し之を遂行す。其の善行を嘉せられ紺綬褒章を下賜せらる。父子二代にわたる義挙により郷党の享(う)くる所尠(すく)なからず。誠に欽仰(きんぎょう・きんごう)措く(おく)能わざるなり 。惟うに二氏の与えし徳化頗る大なり。異日風を聞きて興起する者豈唯大久保村民のみならん哉。茲に其の功績を勒(ろく)し以て後昆(こうこん)に伝う。
・大久保町に本陣が設けられたのは、播磨国の領主・池田輝政のころの慶長5~18年(1600~1613)で、「慶長播磨国絵図」(1596~1614)には大窪村の南に大窪新町とあり、これが大久保町のもとといわれる。江戸時代に入ると西国街道は、大名の参勤交代などで賑わい第6代明石藩主松平信之のころ[万治2年(1659)~延宝7年(1679)]の記録には「本陣 安藤助太夫」「脇本陣 林屋与兵衛」と記されている。
・住吉神社由緒・・・天正16年(1588年安土桃山時代)に創建され、寛永6年(1629年江戸時代)社殿を再建した。
・森田住吉神社は、江戸時代中期の旧森田村の成立とほぼ同時期に村の鎮守として建てられたのではないかと言われています。(明石藩主松平信之供養塔有り)
・カゲユ池古墳は江戸時代に灌漑用(かんがいよう)としてつくられたカゲユ池と呼ばれる溜池の中に6基ありました。その内の1号墳は、南北10m、東西16m、高さ1.2mの円墳です。 横穴式石室を主体とし、6世紀中頃に築造されたと考えられています。
・三社神社・・・主祭神 天照太神 配祀神 八幡大神 春日大神
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