=渡部直樹撮影
ほんと、アフリカで生まれた人類の祖先が地球上に生息するようになったって七不思議以外の何者でもないでもないよね!あらゆる文明の恩恵を受けている現代の人たちは、絶対的命令を受けても地球の裏側までは行こうとしないだろう!?(笑)
>北極に進出するには、ホッキョクグマを狩ってその毛皮を着ればよいのだ
へへへ、原始人?の方が頭が回るし、工夫も出来るんだね(笑)。いやそれにしても、食うものさえ確保できれば、平和(=ユートピア)な人たちに悪智恵をつけたのは一体誰なんだろう?それも文化の副産物だとしたら文字の発明、産業革命やIT革命なんて罪なものだ。
長谷川先生すみません!「ヒトという生物が根源的に持っている好奇心」 に 「子どものときの感性の鋭さは独特」等々とても興味深く読ませていただき有難うございました。
時代の風 ヒトが全世界に広がった訳 旅へ駆り立てた好奇心=長谷川眞理子・総合研究大学院大学長
毎日新聞 2018年10月28日 東京朝刊
私たちホモ・サピエンスという動物は、今から20万~30万年前にアフリカで進化した。その後、アフリカを出て急速に広がり、南極大陸を除く全世界に分布するようになった。熱帯から寒帯まで、低地から高地まで、ヒトはあらゆる環境に進出している。
動物の一種としては、これは驚異的なことだ。何でも食べることで有名なドブネズミでも、こうはいかない。なぜ、ヒトはこれほど多様な環境に住めるのか?
その答えは、ヒトが持つ文化の力である。クマの仲間は熱帯から北極にまで生息している。熱帯のマレーグマは毛が黒くてからだは比較的小さい。温帯から亜寒帯にすむヒグマはからだが大きく、毛が赤茶色。ホッキョクグマになると、からだが大きいばかりでなく毛が白い。普通、動物が異なる環境にすむには、異なる形態の進化が必須だ。
しかし、ヒトは、自分のからだがそれほど変わらなくても、自ら生み出した文化によって対応してしまう。北極に進出するには、ホッキョクグマを狩ってその毛皮を着ればよいのだ。ホッキョクグマの毛皮を着れば寒くなくなると気づいた一人が、気づかなかった他人に教えてあげれば、瞬く間に全員が寒冷地に進出可能となる。もちろん、話はこんなに簡単ではないが、文化伝達の効用は絶大だ。
それはさておき、今回取り上げたいのは、ヒトはなぜこんなに全世界に広がったのか、ということだ。アフリカで誕生したホモ・サピエンスは、ほんの一握りの少数でしかなかった。初めから100万人以上いたわけではない。そして、アフリカは広い。窮屈だったはずもないのに、なぜアフリカを出て他の世界に行こうとしたのだろう?
アフリカを出て、アジア、ヨーロッパ、オーストラリアまで行く。シベリアからベーリング海峡を渡り、北アメリカ大陸に進出し、そこから南下して南アメリカの最南端まで行く。アジアから海に進出し、太平洋の島々に拡散する。それが、ほんの数万年の間に成し遂げられたのだ。
生態学的に必須ではないとしたら、なぜホモ・サピエンスは、先へ先へと旅したのだろう? 今の旅とは比べものにならないくらい危険だったにもかかわらず。
それは、ヒトという生物が根源的に持っている好奇心なのだと私は思う。あの山の向こうには何がある、という好奇心。物事の因果関係というものを理解し、明日という未来を想像することのできる存在は、未知のものをわかりたい、知りたい、見たいという気持ちになるのだろう。だからヒトは、世界中に分布を広げ、現象の説明を探し求め、よりよい道具を発明し、さらにそれらを改良し、現在の文明にたどり着いた。
食べることは楽しみ、セックスは楽しみ、仲間がいるのは楽しみであると同様に、見ること、知ること、わかることは楽しみなのだ。南米のパラグアイに住む狩猟採集民のアチェという人々の男性は、生涯に1万2000平方キロの範囲を行動するという。ヒトは渡り鳥ではないし、単に毎日の食料を追いかけているだけで、これだけの面積を移動する必然性はない。では、なぜこんなに歩き回るのか? やっぱり、あの先に何があるのかを見たいのだ。
ニホンザルの子どもたちも、結構いろいろなことに興味を抱く。彼らにも、ときには新しい「文化」と言える行動が出てくるが、それはたいてい若い個体による発明だ。
ヒトの子どもは本当に何にでも興味を示し、「なぜ?」を連発する。それには答えてあげねばならない。子どものときの単純な「なぜ?」に導かれて、どれほどのものを見たか、触ったか、経験したか、その蓄積が、おとなになったときの心的世界のもとになるのだ。
今や、電車の中でもどこでも、子どもがスマートフォンを見ている。視覚的に引きつけられるので、そちらに注意が向くのだろう。そうすると、ほかのものに注意を向ける時間が減る。つまり、経験の幅が狭くなる。それはとてももったいないことだと思うのだ。
子どものときの感性の鋭さは独特である。そんな時は二度とない。スマホの画面ではなく、現実世界の多様さとおもしろさを経験させてあげて、この好奇心を健やかに育てあげるのが、ヒトのおとなの義務ではないかと思うのである。=毎週日曜日に掲載
今日も訪問 ありがとうございます。
ランキングに参加しています。クリックして応援お願いします。
にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキング
ほんと、アフリカで生まれた人類の祖先が地球上に生息するようになったって七不思議以外の何者でもないでもないよね!あらゆる文明の恩恵を受けている現代の人たちは、絶対的命令を受けても地球の裏側までは行こうとしないだろう!?(笑)
>北極に進出するには、ホッキョクグマを狩ってその毛皮を着ればよいのだ
へへへ、原始人?の方が頭が回るし、工夫も出来るんだね(笑)。いやそれにしても、食うものさえ確保できれば、平和(=ユートピア)な人たちに悪智恵をつけたのは一体誰なんだろう?それも文化の副産物だとしたら文字の発明、産業革命やIT革命なんて罪なものだ。
長谷川先生すみません!「ヒトという生物が根源的に持っている好奇心」 に 「子どものときの感性の鋭さは独特」等々とても興味深く読ませていただき有難うございました。
時代の風 ヒトが全世界に広がった訳 旅へ駆り立てた好奇心=長谷川眞理子・総合研究大学院大学長
毎日新聞 2018年10月28日 東京朝刊
私たちホモ・サピエンスという動物は、今から20万~30万年前にアフリカで進化した。その後、アフリカを出て急速に広がり、南極大陸を除く全世界に分布するようになった。熱帯から寒帯まで、低地から高地まで、ヒトはあらゆる環境に進出している。
動物の一種としては、これは驚異的なことだ。何でも食べることで有名なドブネズミでも、こうはいかない。なぜ、ヒトはこれほど多様な環境に住めるのか?
その答えは、ヒトが持つ文化の力である。クマの仲間は熱帯から北極にまで生息している。熱帯のマレーグマは毛が黒くてからだは比較的小さい。温帯から亜寒帯にすむヒグマはからだが大きく、毛が赤茶色。ホッキョクグマになると、からだが大きいばかりでなく毛が白い。普通、動物が異なる環境にすむには、異なる形態の進化が必須だ。
しかし、ヒトは、自分のからだがそれほど変わらなくても、自ら生み出した文化によって対応してしまう。北極に進出するには、ホッキョクグマを狩ってその毛皮を着ればよいのだ。ホッキョクグマの毛皮を着れば寒くなくなると気づいた一人が、気づかなかった他人に教えてあげれば、瞬く間に全員が寒冷地に進出可能となる。もちろん、話はこんなに簡単ではないが、文化伝達の効用は絶大だ。
それはさておき、今回取り上げたいのは、ヒトはなぜこんなに全世界に広がったのか、ということだ。アフリカで誕生したホモ・サピエンスは、ほんの一握りの少数でしかなかった。初めから100万人以上いたわけではない。そして、アフリカは広い。窮屈だったはずもないのに、なぜアフリカを出て他の世界に行こうとしたのだろう?
アフリカを出て、アジア、ヨーロッパ、オーストラリアまで行く。シベリアからベーリング海峡を渡り、北アメリカ大陸に進出し、そこから南下して南アメリカの最南端まで行く。アジアから海に進出し、太平洋の島々に拡散する。それが、ほんの数万年の間に成し遂げられたのだ。
生態学的に必須ではないとしたら、なぜホモ・サピエンスは、先へ先へと旅したのだろう? 今の旅とは比べものにならないくらい危険だったにもかかわらず。
それは、ヒトという生物が根源的に持っている好奇心なのだと私は思う。あの山の向こうには何がある、という好奇心。物事の因果関係というものを理解し、明日という未来を想像することのできる存在は、未知のものをわかりたい、知りたい、見たいという気持ちになるのだろう。だからヒトは、世界中に分布を広げ、現象の説明を探し求め、よりよい道具を発明し、さらにそれらを改良し、現在の文明にたどり着いた。
食べることは楽しみ、セックスは楽しみ、仲間がいるのは楽しみであると同様に、見ること、知ること、わかることは楽しみなのだ。南米のパラグアイに住む狩猟採集民のアチェという人々の男性は、生涯に1万2000平方キロの範囲を行動するという。ヒトは渡り鳥ではないし、単に毎日の食料を追いかけているだけで、これだけの面積を移動する必然性はない。では、なぜこんなに歩き回るのか? やっぱり、あの先に何があるのかを見たいのだ。
ニホンザルの子どもたちも、結構いろいろなことに興味を抱く。彼らにも、ときには新しい「文化」と言える行動が出てくるが、それはたいてい若い個体による発明だ。
ヒトの子どもは本当に何にでも興味を示し、「なぜ?」を連発する。それには答えてあげねばならない。子どものときの単純な「なぜ?」に導かれて、どれほどのものを見たか、触ったか、経験したか、その蓄積が、おとなになったときの心的世界のもとになるのだ。
今や、電車の中でもどこでも、子どもがスマートフォンを見ている。視覚的に引きつけられるので、そちらに注意が向くのだろう。そうすると、ほかのものに注意を向ける時間が減る。つまり、経験の幅が狭くなる。それはとてももったいないことだと思うのだ。
子どものときの感性の鋭さは独特である。そんな時は二度とない。スマホの画面ではなく、現実世界の多様さとおもしろさを経験させてあげて、この好奇心を健やかに育てあげるのが、ヒトのおとなの義務ではないかと思うのである。=毎週日曜日に掲載
今日も訪問 ありがとうございます。
ランキングに参加しています。クリックして応援お願いします。
にほんブログ村 にほんブログ村 人気ブログランキング