う~~~ん、藤原正彦先生のコラムを転載しはじめたが、初めと終わりはわかり易いが中程はかなりヘビイですね(笑)。藤原先生は米国と英国の大学で数学の教鞭をとられたことがある。新書版『国家の品格』は大ベストセラーになったこと、小説 『孤高の人』の著者・新田次郎氏は実父であることも何回か書いたと思う。
小父さん的には流行りの子供の英語教育が藤原先生があちこちで書いていることに以前から共感を持っていた。先ずは国語をしっかり勉強しなさいと説いてある。
藤原正彦の管見妄語(かんけんもうご)グローバル教育の行き着く先
我が国では官民をあげてのグローバル教育が燃え盛っている。筆頭は英語教育だ。先日発表された小中学校の新しい学習指導要領案でも、目玉は小学校の英語が三、四年生に引き下げられたことだ。十年ほど前に五、六年生に英語が初めて導入された時、私は「効果がないことがいずれ分かり、三、四年生に引き下げれるだろう。それでも効果がないことがやがて分かり、一、二年生に引き下げられるはずだ」と書いた。その通りの進行のようだ。一、二年生まで下げても、日本人は英語を自由に操れるようにはなれない、といくら言っても教育関係者、財界、とりわけ国民は分からないようだ。そもそも英語を教えられる最低限と言える英検準一級の力を持つ小学校教員がたったの〇・八%しかいないのだ。それに加え、AI(人工知能 artificial intelligence)の著しい発展により、十年後には充分に使える自動翻訳機能がスマホにつくと専門家が断言している。今の小学生が大学を出る頃には、スマホに向かって日本語を話すだけで直ちに英語が音声として出てくる。小学校でいま英語強化とは、頭がくらくらする。
グローバル教育として小中高大で英語に次いで望まれているのは、コミュニケーションやプレゼンテーションの能力向上という。そのためにはアクティブ・ラーニングが有効と信じられている。片仮名ばかりなのはアメリカの真似だからだ。向こうの大学で教えた経験に照らしても、大統領選での大騒ぎぶりや国際テストでの子供たちの成績を見ても、あちらの教育がさほど成功しているようには見えないのだが。アクティブ・ラーニングとは体験学習、ディベート、ディスカッションなどのことらしい。これは多少ならとり入れてもよい。アメリカでは二分の一 プラス 三分の一(たし算)もできず地図上で日本を指せない人々が、堂々と論理的に自らの意見を述べる。フランス人、中国人、インド人などもつまらないことを自信満々に語る。「国際会議の議長は、インド人を黙らせ、日本人をしゃべらせれば成功」というジョークまであるほど日本人は話さない。「こんなことを言ったら誰かを傷つけないか」「場違いなことを言ってしまわないか」「つまらない発言をして見下されないか」などと心配し躊躇してしまうのだ。控え目なことは国内では美徳の一つと言われようが、海外では「意見を言わない人」=「意見のない人」と見なされかねない。
肝腎なのは、いくらディベートやディスカッションを重ねても論理的に話すことに慣れるだけということだ。堂々と論理的に話すことと内容の質とが無関係なのは、アメリカ人を見ればわかる。かって山本夏彦翁は「三人寄れば文殊の知恵」をもじって「バカが三人寄れば三倍バカになる」と喝破した。いくら皆で熱心に話し合っても、各自に十分な知識や教養がない限りつまらぬおしゃべりの域を出ないということだ。情報ならインターネットやスマホで事足りるが、知識や教養となるとどうしても新聞や本を読まねば身につかない。グローバル教育の御旗の下、いくら英語やプレゼンテーションやコミュニケーション能力を磨いても、世界に出たら評価の対象となるのは内容であり、教養や見識である。流暢な英語でとうとうと語り、パワーポイントを用い美しい図表で上手に説明しても、空疎な内容では物笑いの種となるだけだ。国語や算数など人間としての基盤を作るものには膨大な時間と努力が必要になる。グローバル教育という皮相的なものが他の重要教科、とりわけ知的活動のの基礎として初等教育で圧倒的に大切な国語の充実を妨げているし、今後さらに大きく妨げるだろう。ここ二十年間の教育界は、ゆとり教育、フィンランド式教育、グローバル教育と次々に他国の真似ばかりしている。この節操のなさ、自信のなさは何なのだろう。グローバル教育などにうつつを抜かしていると、日本中が中味のない口舌の徒ばかりとなる。