ほんと、東京はどうしてあんなにも巨大化してしまったんだろうね!小父さんは20歳の頃、アメリカはニューヨークにワシントン、ハリウッドと若者が目指す街は分散しているが、日本もそうにはならないものか?とよく言っていた。
昨晩も大阪発のお笑い芸人さんが、東京に進出した頃のことを熱く語っていたけど、スポーツも学問もいい会社に入るためにもみんな東京に集まってしまうんだ。田中優子先生が言うように東京という怪物の舵取りをするのは簡単なことではないだろう。
小父さんは、小田急で新宿駅の到着する間際の沿線の光景を見て驚いたね。首都直下型地震が発生して民家が倒壊したら避難所で収容しきれる町なんて絶対ないと!
この「江戸を歩く」という本面白そうだ。
田中優子の江戸から見ると 巨大都市 / 毎日新聞
毎日新聞2016年7月27日 東京夕刊
東京都知事選挙の投票日が近づき、このところ江戸や東京について考える機会が増えた。「江戸を歩く」(集英社)という本を書いたことがあって、そのとき江戸は、実によくできた都市だと思った。
第一に、江戸幕府は江戸が、京都、大坂を含めた三都のひとつという認識があり、全てを江戸に包摂しようとはしなかった。首都は京都であり、江戸初期にルール(禁中並公家諸法度)ができてしまうと、京都の天皇家や公家などに介入しなかった。
第二に江戸城には最後まで城壁を造らず、江戸湾および内濠(うちぼり)外濠の水を防御と流通の柱とした。結果的に江戸は、他の多くの運河も手伝って、ベネチアに勝るとも劣らない水の都であった。
第三に、焼失後に天守閣を造らなかった。防衛という名の戦争をやる気がなく、そういう資金は別に使った方が良いと考えていたのだ。といってもヨーロッパの王宮のように、城や装飾にふんだんに使うという発想もなかった。そしてハードによる防衛の代わりに、寺社の配置というソフトによる防御を整えた。北極星の方向に位置する日光東照宮の造営は、江戸幕府としてはもっとも資金を使ったぜいたくだったのかもしれない。さらに、東北の位置に寛永寺、その他に神田明神、山王社、増上寺などを配置して江戸の守りとした。
第四に、江戸を地方の藩邸の集積地とした。これは内戦防止戦略だったが、結果的に造園が発達して緑が多くなり、全国の情報と商人と商品が集まった。世界最大の人口を抱えることになったが、下肥や塵芥(じんかい)や布や紙や木材のリサイクルによる資源の循環と環境保全をすることで、この世界最大の都市はさほど悲惨なことにはならなかったのである。
しかし今は少子高齢化、テロ、貧困や格差を抱え、大地震の危険は世界で最も大きい。知事になる人は、国政よりはるかに難しい、と思ってほしい。(法政大総長)