四万十川と高瀬沈下橋 写真は沈下橋だよりから
2012年06月13日 毎日jp
南国土佐を訪ねるたびに、〈日本のよさ〉を感じる。風土がいいが、人柄もいい。
一度行ってみたいと思いながら果たせなかった四万十川と足摺岬を、先日旅することができた。出掛ける前に、高知出身の医師で写真家の桑名隆一郎さんが著した写真集『永遠なる四万十川−−自然と人々の共生をもとめて』(リヨン社・一九九一年刊)をめくっていると、すでに故人の鯨岡兵輔元環境庁長官が一文を寄せていた。昭和天皇がご健在のころ、ご進講に出向いた時の思い出話で、天皇は、
「自然は人間の生活にとって何より尊いものである。人間は自然を慕ってそこに集まる。しかし、集まり過ぎると自然は壊される。大変難しい問題だが、どう考えているか」
とおっしゃった。鯨岡さんはあまりの緊張にどう答えたか思い出せないと書いている。
昭和天皇のご下問は月並みなように聞こえるが、実は大きなテーマである。四万十川を訪ねてみると、それがよくわかる。四国山地の南側をゆったり蛇行しながら流れる全長百九十六キロの大河が、〈日本最後の清流〉の尊称を保っている理由は、自然と人間の調和、共生だ。
流域、四万十市の人口は三万五千人ほどで適正である。これが三十万人、四十万人にふくれれば、清流が維持できるか疑わしい。高知市から特急列車(土讃線)でも一時間四十分かかる遠隔の地であることが、自然保護に幸いしているのだろう。
さて、四万十川の魅力は改めて記すまでもないが、一つだけ私が驚いたことがあった。歩行が満足でないので、タクシーで流域をめぐることになったが、途中、橋を渡り始めると、なんと欄干がないではないか。正直、不安を覚えた。
「この橋、どうしたの」
と思わず詰問調になったが、運転手さんは、
「ああ、これ、〈沈下橋〉言いますのや。台風で水かさが増して橋が水没してしまうことが多いんです。流木やゴミが欄干に引っかかると、欄干も流される、どうせ流されるなら、最初からない方がいい。欄干がもぎとられると橋全体も傷みますからねえ」
と説明した。寡聞にして、沈下橋などという奇妙な名前の橋があることを知らなかった。
「へえー、しかし危ないでしょ。車が落ちたりしないの」
「ええ、時々。この前も軽トラックが落ちましたね。流されて運転手は死んだな。橋本体も、ゴミなどが引っかからないように両側の角が、丸くしてあるから滑りやすい」
と運転手さんは物騒なことをケロリとして言うのだ。
◇建設の物語に思う変わらない土佐人気質
室戸台風(一九三四年)に代表されるように高知県は台風の通り道。そのつど四万十川は濁流が渦巻くから、清流の一方で〈暴れ川〉の異名もある。橋は濁流に隠れ見えなくなるので、別名〈潜水橋〉とも〈潜り橋〉とも言うそうだ。いま、四万十川と支流に××沈下橋という名の橋が五十九も架かっている。それにしても、なぜそこまで−−。
ここからあとは、『高知新聞』出身の郷土史家、谷是さんの編著書『高知県謎解き散歩』(新人物文庫・二〇一二年刊)に頼らなければならない。同書によると、昭和の初め、日本初の沈下橋が高知市の鏡川に架かった。実現させたのは、当時、高知市の清水眞澄土木課長と発案者の吉岡吾一土木技術師だった。
吉岡さんが中国西湖に揚子江の出水で沈む石橋があることに着目したのがきっかけだが、県当局は沈下橋でかえって上流の洪水被害が広がると猛反発した。吉岡さんの技術力を信頼する清水さんは内務省に出願、ここでも一笑に付される。しかし、根気よく陳情を繰り返し、ついに建設許可が下りたという。沈下橋は工費が安く、短い工期で仕上がるメリットもあった。
沈下橋物語を聞きながら、私は土佐人気質を思った。知人に高知出身者は何人もいるが、例外なく一徹者である。妥協しない。土佐男を〈いごっそう〉と言い、意固地が由来と聞くが、そんなマイナスイメージとも違う。
〈酒を酌み、侃々諤々と議論をたたかわせるが、翌日はケロリとして猛暑の中、汗を流して働く。過去にウジウジととらわれない。諦めのよさと、誰をも人なつっこく包含する鷹揚さを持ち、全国でも少なくなった原日本人が色濃く残っている〉
と先の『謎解き散歩』にもあった、同感である。南国には、変わらないものが残っている。もう一つ付け加えれば、割り切りのよさだ。
こんな体験がある。もう三十年近く前、本誌の編集をしていたころ、関西の広域暴力団Y組と高知の暴力団I会が対立、死闘を演じたことがあった。I会会長の夫人が、
「もうヤクザはこりごりだ」
という趣旨の発言をし、それを本誌に大きく載せたことから、I会が立腹し、
「責任者があいさつに来い」
と求めてきた。私は気が重かったが、こじれるとまずいと思い、担当デスクを伴って高知入りした。
I会は旅館を一軒借り上げ、襲撃に備えて鉄の門扉を取り付け臨戦態勢である。私たちが近づくと、道の両側に若い組員がずらりと並び、気がついたら吸い込まれるようになかに入っていた。
何が始まるのか。奥の和室に行くと、こたつで中年男が一人待っている。小柄で農夫のような朴訥な感じである。会長だった。
「いやあ、来なすったか。よう来てくれた。それだけでいいのや。ゆっくりしてください」
とにこやかに言う。拍子抜けである。雑談のあと、会長は、
「私ら、Y組の連中を最後の一人まで殺しますから」
とあっけらかんとしている。気負ったふうはまったくなかった。しばらく会長の顔が目の前にちらついて離れなかった。沈下橋にみる土佐人の割り切りのよさを知り、昔の〈こたつの男〉を思い出すことになった。
<今週のひと言>
麻原さえいなければ、菊地直子もいい人生を送っていたろうに。
(サンデー毎日2012年6月24日号)
いやー、大らかな土佐人気質っていいな〜。聞くところの四万十川も見たことないし、一度訪ねてみたくなった!国際結婚をされてイリノイ州に住むイジーさんは、高知のことをこよなく愛してあるし、自らのブログでは、自分たちのことを “はちきんイジーとアメリカンいごっそうバッキー”と名づけてある。現役時代にも「いごっそう」を名乗る人が会社にいたな〜。このコラムを読んでこの土地の風土なり気質に少し触れた気がした。きっと四万十川のように純朴なんだろう!
今日も訪問 ありがとうございます。
良かったら 下記のバーナーをクリック よろしくお願いします。
にほんブログ村
2012年06月13日 毎日jp
南国土佐を訪ねるたびに、〈日本のよさ〉を感じる。風土がいいが、人柄もいい。
一度行ってみたいと思いながら果たせなかった四万十川と足摺岬を、先日旅することができた。出掛ける前に、高知出身の医師で写真家の桑名隆一郎さんが著した写真集『永遠なる四万十川−−自然と人々の共生をもとめて』(リヨン社・一九九一年刊)をめくっていると、すでに故人の鯨岡兵輔元環境庁長官が一文を寄せていた。昭和天皇がご健在のころ、ご進講に出向いた時の思い出話で、天皇は、
「自然は人間の生活にとって何より尊いものである。人間は自然を慕ってそこに集まる。しかし、集まり過ぎると自然は壊される。大変難しい問題だが、どう考えているか」
とおっしゃった。鯨岡さんはあまりの緊張にどう答えたか思い出せないと書いている。
昭和天皇のご下問は月並みなように聞こえるが、実は大きなテーマである。四万十川を訪ねてみると、それがよくわかる。四国山地の南側をゆったり蛇行しながら流れる全長百九十六キロの大河が、〈日本最後の清流〉の尊称を保っている理由は、自然と人間の調和、共生だ。
流域、四万十市の人口は三万五千人ほどで適正である。これが三十万人、四十万人にふくれれば、清流が維持できるか疑わしい。高知市から特急列車(土讃線)でも一時間四十分かかる遠隔の地であることが、自然保護に幸いしているのだろう。
さて、四万十川の魅力は改めて記すまでもないが、一つだけ私が驚いたことがあった。歩行が満足でないので、タクシーで流域をめぐることになったが、途中、橋を渡り始めると、なんと欄干がないではないか。正直、不安を覚えた。
「この橋、どうしたの」
と思わず詰問調になったが、運転手さんは、
「ああ、これ、〈沈下橋〉言いますのや。台風で水かさが増して橋が水没してしまうことが多いんです。流木やゴミが欄干に引っかかると、欄干も流される、どうせ流されるなら、最初からない方がいい。欄干がもぎとられると橋全体も傷みますからねえ」
と説明した。寡聞にして、沈下橋などという奇妙な名前の橋があることを知らなかった。
「へえー、しかし危ないでしょ。車が落ちたりしないの」
「ええ、時々。この前も軽トラックが落ちましたね。流されて運転手は死んだな。橋本体も、ゴミなどが引っかからないように両側の角が、丸くしてあるから滑りやすい」
と運転手さんは物騒なことをケロリとして言うのだ。
◇建設の物語に思う変わらない土佐人気質
室戸台風(一九三四年)に代表されるように高知県は台風の通り道。そのつど四万十川は濁流が渦巻くから、清流の一方で〈暴れ川〉の異名もある。橋は濁流に隠れ見えなくなるので、別名〈潜水橋〉とも〈潜り橋〉とも言うそうだ。いま、四万十川と支流に××沈下橋という名の橋が五十九も架かっている。それにしても、なぜそこまで−−。
ここからあとは、『高知新聞』出身の郷土史家、谷是さんの編著書『高知県謎解き散歩』(新人物文庫・二〇一二年刊)に頼らなければならない。同書によると、昭和の初め、日本初の沈下橋が高知市の鏡川に架かった。実現させたのは、当時、高知市の清水眞澄土木課長と発案者の吉岡吾一土木技術師だった。
吉岡さんが中国西湖に揚子江の出水で沈む石橋があることに着目したのがきっかけだが、県当局は沈下橋でかえって上流の洪水被害が広がると猛反発した。吉岡さんの技術力を信頼する清水さんは内務省に出願、ここでも一笑に付される。しかし、根気よく陳情を繰り返し、ついに建設許可が下りたという。沈下橋は工費が安く、短い工期で仕上がるメリットもあった。
沈下橋物語を聞きながら、私は土佐人気質を思った。知人に高知出身者は何人もいるが、例外なく一徹者である。妥協しない。土佐男を〈いごっそう〉と言い、意固地が由来と聞くが、そんなマイナスイメージとも違う。
〈酒を酌み、侃々諤々と議論をたたかわせるが、翌日はケロリとして猛暑の中、汗を流して働く。過去にウジウジととらわれない。諦めのよさと、誰をも人なつっこく包含する鷹揚さを持ち、全国でも少なくなった原日本人が色濃く残っている〉
と先の『謎解き散歩』にもあった、同感である。南国には、変わらないものが残っている。もう一つ付け加えれば、割り切りのよさだ。
こんな体験がある。もう三十年近く前、本誌の編集をしていたころ、関西の広域暴力団Y組と高知の暴力団I会が対立、死闘を演じたことがあった。I会会長の夫人が、
「もうヤクザはこりごりだ」
という趣旨の発言をし、それを本誌に大きく載せたことから、I会が立腹し、
「責任者があいさつに来い」
と求めてきた。私は気が重かったが、こじれるとまずいと思い、担当デスクを伴って高知入りした。
I会は旅館を一軒借り上げ、襲撃に備えて鉄の門扉を取り付け臨戦態勢である。私たちが近づくと、道の両側に若い組員がずらりと並び、気がついたら吸い込まれるようになかに入っていた。
何が始まるのか。奥の和室に行くと、こたつで中年男が一人待っている。小柄で農夫のような朴訥な感じである。会長だった。
「いやあ、来なすったか。よう来てくれた。それだけでいいのや。ゆっくりしてください」
とにこやかに言う。拍子抜けである。雑談のあと、会長は、
「私ら、Y組の連中を最後の一人まで殺しますから」
とあっけらかんとしている。気負ったふうはまったくなかった。しばらく会長の顔が目の前にちらついて離れなかった。沈下橋にみる土佐人の割り切りのよさを知り、昔の〈こたつの男〉を思い出すことになった。
<今週のひと言>
麻原さえいなければ、菊地直子もいい人生を送っていたろうに。
(サンデー毎日2012年6月24日号)
いやー、大らかな土佐人気質っていいな〜。聞くところの四万十川も見たことないし、一度訪ねてみたくなった!国際結婚をされてイリノイ州に住むイジーさんは、高知のことをこよなく愛してあるし、自らのブログでは、自分たちのことを “はちきんイジーとアメリカンいごっそうバッキー”と名づけてある。現役時代にも「いごっそう」を名乗る人が会社にいたな〜。このコラムを読んでこの土地の風土なり気質に少し触れた気がした。きっと四万十川のように純朴なんだろう!
今日も訪問 ありがとうございます。
良かったら 下記のバーナーをクリック よろしくお願いします。
にほんブログ村