第37回総選挙で田中角栄元首相の総選挙区、新潟3区から立候補する野坂昭如氏=新潟県で1983年11月29日、高橋勝視撮影 訃報 野坂昭如さん85歳=「火垂るの墓」で直木賞
野坂昭如さんのご冥福をこころからお祈り致します。
その昔には、福岡のローカル放送の昼の番組に酩酊して出て来て司会のアナウンサーを怒らせていたこともあったけど、近年の野坂さんの毎日新聞のコラムは毎回とても楽しみにしていました。
「七転び八起き」 日本の正月『どこでけじめつけるのか』
毎日新聞2013年12月17日朝刊から
今年の夏は茹(う)だるような暑さが続き、各地で猛暑がいわれた。連日ぼくも熱中症対策に気を配りつつ、水をガブ飲みして過ごした。
大雨、豪雨も多かった。台風、竜巻などめったに起こらぬ被害にも見舞われた。丹精込めて育てられた稲が倒伏、冠水。日照りで割れた田畑を目にするのもつらいが、この風景も悲しい。当然生産者はさらに切実。
吹く風にようやく秋の気配を感じ、天高く馬肥ゆる季節到来かと思いきや、あっという間に冬の訪れ。年寄りにはこたえる。天変地異は当然のこと。自然に向かって人間があれこれいうのは間違っている。いちいち異常だと騒ぎ過ぎる。それにしても四季豊かな日本が、少しづつ変わってきているようにも思う。このところテレビもあまり観(み)ない。引きこもっている分、世の移り変わりをニュース映像などに確かめてもいいようなものだが、どのチャンネルも同じことの繰り返しで、観る気がまったくくおきない。
ぼくは民放育ちである。はじめラジオ台本を手がけて原稿料を稼ぎ、テレビも取っかかりから関わり、CMソング作詞、音楽番組と渡り歩いてきた。何でも出だしは勢いがあり画期的、テレビも例外ではなかった。テレビの斜陽がいわれて久しいが、このところつまらなさが目立つ。お笑い、歌番組、何を観ても面白くもなく、またわけもわからなぬ。こっちも老いぼれて眼力も衰え、また感性も失われているとの自覚はある。それにしてもくだらない番組ばかり。
テレビの芸の本質はマンネリにある。タレント芸人、うまくマンネリ化すれば長持ちする。かってのそのマンネリに芸があった。
才能豊か、個性的な人間が集まり、過激さやある種の毒が混じり合う。それが月並み化する前に、さっと化けてしまう。今のマンネリ化には先がない。キラリと光る過激な発言も、言動、風貌のけったいな存在も今は育ちにくい。CMもつまらなくなった。CMはテレビという虚構の中で、ふと現実に立ち戻る。手品のような作用がある。今は視聴者に媚(こ)びたものばかり。番組のつくり方も、スポンサーの意向に左右された色が濃い。企業にとっていい番組とは、中身がなくても視聴率が良いもの。お笑い、歌番組、グルメ、大食いが目立つ。本物の歌手が去り、歌詞もまた、言葉が蝕(むしば)まれている。女の子の集団が歌い踊りまくる音楽もけっこうだが、心に長く残る曲がない。使い捨ての歌ばかり。
テレビは日本の娯楽、文化を表すといわれてきたが、今やゴミ箱と化した。
暮れも押し詰まり、世の中は慌ただしい。クリスマスのイルミネーションはどこ、ケーキはどこのと、他の国のイベントに明け暮れている。日本の師走はもっとおとなしかった。同じ慌ただしさでも、その中心は新年を迎えるための準備に明け暮れた。障子の貼り替えにはじまって畳を替える。今、障子を触ったこともない子供もいるだろう。畳もまた、特別なものとなった。常より丁寧に掃除をして清め、穏やかに新しい年を迎える準備をする。餅やおせちの用意も年末の大事な行事。親から子へ、その家々のつくり方が伝えられた。今、おせちはつくるというより、買うものらしい。デパートのみならず、新聞広告、通販、スーパーやコンビニでも予約を受けているとか。現代人は忙しい。手を抜いて悪いとはいわない。だが、冷凍やパック詰めで届くおせちを正月に並べては、有り難みは半減する。黒豆、田作り、煮〆(にしめ)それぞれに意味があり、代々伝えることで日本のもつ、文化の伝承がなされてきた。洋風、中華あれこれ、楽しむのも結構だが、本来のお正月はグルメに明け暮れるものではない。日本のお重の中は海老(えび)にしろ練りものの材料にしろ外国経由が多い。
今年もまた偽装食品がいわれ、偽装けしからんことと眉をひそめた。偽装虚偽行為の根本は恥にある。日本には恥ずかしいという文化があった。人が見ていようが、いまいが恥ずかしいことはしないという気持ちを多くの人間が持っていた。これは売る側も買う側も同じ。高級志向を良しとして、あるいは有名店をもてはやし、金を出せば満足、うまいものだと信じ込み、根っこにある食文化については考えない。そんな世間にも矛盾がある。新年を迎えるために、今年を振り返り襟をただすという思いがあった。今、日本の正月はどこでけじめをつけているのか。締まりのない年の瀬が続く。(企画・構成/信原彰夫)
野坂昭如さんのご冥福をこころからお祈り致します。
その昔には、福岡のローカル放送の昼の番組に酩酊して出て来て司会のアナウンサーを怒らせていたこともあったけど、近年の野坂さんの毎日新聞のコラムは毎回とても楽しみにしていました。
「七転び八起き」 日本の正月『どこでけじめつけるのか』
毎日新聞2013年12月17日朝刊から
今年の夏は茹(う)だるような暑さが続き、各地で猛暑がいわれた。連日ぼくも熱中症対策に気を配りつつ、水をガブ飲みして過ごした。
大雨、豪雨も多かった。台風、竜巻などめったに起こらぬ被害にも見舞われた。丹精込めて育てられた稲が倒伏、冠水。日照りで割れた田畑を目にするのもつらいが、この風景も悲しい。当然生産者はさらに切実。
吹く風にようやく秋の気配を感じ、天高く馬肥ゆる季節到来かと思いきや、あっという間に冬の訪れ。年寄りにはこたえる。天変地異は当然のこと。自然に向かって人間があれこれいうのは間違っている。いちいち異常だと騒ぎ過ぎる。それにしても四季豊かな日本が、少しづつ変わってきているようにも思う。このところテレビもあまり観(み)ない。引きこもっている分、世の移り変わりをニュース映像などに確かめてもいいようなものだが、どのチャンネルも同じことの繰り返しで、観る気がまったくくおきない。
ぼくは民放育ちである。はじめラジオ台本を手がけて原稿料を稼ぎ、テレビも取っかかりから関わり、CMソング作詞、音楽番組と渡り歩いてきた。何でも出だしは勢いがあり画期的、テレビも例外ではなかった。テレビの斜陽がいわれて久しいが、このところつまらなさが目立つ。お笑い、歌番組、何を観ても面白くもなく、またわけもわからなぬ。こっちも老いぼれて眼力も衰え、また感性も失われているとの自覚はある。それにしてもくだらない番組ばかり。
テレビの芸の本質はマンネリにある。タレント芸人、うまくマンネリ化すれば長持ちする。かってのそのマンネリに芸があった。
才能豊か、個性的な人間が集まり、過激さやある種の毒が混じり合う。それが月並み化する前に、さっと化けてしまう。今のマンネリ化には先がない。キラリと光る過激な発言も、言動、風貌のけったいな存在も今は育ちにくい。CMもつまらなくなった。CMはテレビという虚構の中で、ふと現実に立ち戻る。手品のような作用がある。今は視聴者に媚(こ)びたものばかり。番組のつくり方も、スポンサーの意向に左右された色が濃い。企業にとっていい番組とは、中身がなくても視聴率が良いもの。お笑い、歌番組、グルメ、大食いが目立つ。本物の歌手が去り、歌詞もまた、言葉が蝕(むしば)まれている。女の子の集団が歌い踊りまくる音楽もけっこうだが、心に長く残る曲がない。使い捨ての歌ばかり。
テレビは日本の娯楽、文化を表すといわれてきたが、今やゴミ箱と化した。
暮れも押し詰まり、世の中は慌ただしい。クリスマスのイルミネーションはどこ、ケーキはどこのと、他の国のイベントに明け暮れている。日本の師走はもっとおとなしかった。同じ慌ただしさでも、その中心は新年を迎えるための準備に明け暮れた。障子の貼り替えにはじまって畳を替える。今、障子を触ったこともない子供もいるだろう。畳もまた、特別なものとなった。常より丁寧に掃除をして清め、穏やかに新しい年を迎える準備をする。餅やおせちの用意も年末の大事な行事。親から子へ、その家々のつくり方が伝えられた。今、おせちはつくるというより、買うものらしい。デパートのみならず、新聞広告、通販、スーパーやコンビニでも予約を受けているとか。現代人は忙しい。手を抜いて悪いとはいわない。だが、冷凍やパック詰めで届くおせちを正月に並べては、有り難みは半減する。黒豆、田作り、煮〆(にしめ)それぞれに意味があり、代々伝えることで日本のもつ、文化の伝承がなされてきた。洋風、中華あれこれ、楽しむのも結構だが、本来のお正月はグルメに明け暮れるものではない。日本のお重の中は海老(えび)にしろ練りものの材料にしろ外国経由が多い。
今年もまた偽装食品がいわれ、偽装けしからんことと眉をひそめた。偽装虚偽行為の根本は恥にある。日本には恥ずかしいという文化があった。人が見ていようが、いまいが恥ずかしいことはしないという気持ちを多くの人間が持っていた。これは売る側も買う側も同じ。高級志向を良しとして、あるいは有名店をもてはやし、金を出せば満足、うまいものだと信じ込み、根っこにある食文化については考えない。そんな世間にも矛盾がある。新年を迎えるために、今年を振り返り襟をただすという思いがあった。今、日本の正月はどこでけじめをつけているのか。締まりのない年の瀬が続く。(企画・構成/信原彰夫)